第26話:Go to pieces
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逃げた企業傭兵とハッカーを追跡するのは企業警察に任せ、ストリンディが向かったのはプラントの事務所だった。
「皆さん大丈夫ですか!? 企業警察です!」
ドアを開け放った彼女は、周囲を見回してから片手に持った教書の画面に目を落とす。そこには、企業警察から彼女に向けられた緊急メッセージがある。
「誰もいない……?」
連絡によると、事務所に何人かが人質になっている、とのことだった。しかし、事務所は不気味なほど静まりかえっている。煌々と光を放つ照明の下には、人っ子一人いない。嫌な予感がする。あまりにも作為的な静けさだ。油断なく彼女が剣を鞘から抜いたその時。
「……けて」
騎士の聴覚がか細い人の声を捕らえた。
「誰かそこにいますか!?」
方向はすぐに分かった。先程目に入った隣の部屋のロッカーの中だ。
「おね……がい。……たすけ……て」
小さな少女の声だ。変声の数理を行使されているのか、声は奇妙なエコーと雑音によって個人を特定できない。
「分かりました! すぐ行きます!」
ストリンディは事務所を突っ切り、隣の部屋のロッカーに向かう。
「ご無事ですか……!?」
ロッカーを開け放ったストリンディが見たのは、空っぽの中身だった。いや、正確には一番下。ストリンディが視線を落としてようやく見えるそこに、一冊の教書が開いた状態で置かれていた。仮想スクリーンが瞬くや否や、膨大な量の構文が流れ整式を形作っていく。
「――かかったな、馬鹿が」
彼女に偽のメッセージを送り届けた者の声が、後ろでした。
瞬間、ストリンディ・ラーズドラングの意識に処理不可能な量の映像と音声が叩きつけられた。それらは大綱に流れる大量の情報を悪意をもって編修し、意識下に強烈なトラウマを発生させるために形作られた汚染数理だ。生理的嫌悪を催す軟体や色彩やマネキンや人体やその他諸々の暗示と隠喩が、時間を何十倍にも遅滞させて脳内を汚染していく。
背筋の凍るような絶叫が上がった。到底人の声帯が出す音とは思えない、ヒトというより捕食される獣が恐怖のあまり上げた断末魔のようなそれは、ストリンディが上げたものだった。明らかにとてつもない恐怖によって発せられたその絶叫は、聞いた者も同様の狂気に引きずり込まれるような、吐き気を催すおぞましさに満ちていた。
糸の切れた人形のように、ストリンディはその場に倒れた。限界まで見開いた焦点の合っていない目に、ゆっくりと涙が溢れていく。ガタガタと全身を不規則に振るわせながら、彼女は子宮の中にいる胎児のように自分の体を抱きかかえる。アシッドレインの作品は、予想をはるかに超える形で、彼女の精神を一時的な不定の狂気にまで墜としていた。
ボーダーラインの朝は、雨が降る寸前の曇天だった。通りを行く人々は空を見上げ、やがて降って来る毒性雨を予感して足早に歩いていく。俺は公園とは名ばかりの不法居住者が要塞化した場所の入り口で、屋台のホットドックとコーヒーを買って朝食を済ませる。パンは湿っぽく、ソーセージは乾ききっていて実にまずいが、これが下層都市の味だ。
「アナタの人造が投票する権利を解放するのはいかがでしょうか?」
俺の隣に立つ人造のヴィディキンスを視認したからか、人が食事中にもかかわらずドローンのセールスが俺につきまとってくる。
「静かにして。食事中よ」
まともに取り合うのも馬鹿馬鹿しいので、有線をカメラに接続して視界を奪取。俺の姿を強制的に消去してやり過ごした。
不機嫌。今の俺の感情はそれだった。不愉快。疑惑。苛立ち。そういった負の感情が胸の奥で渦巻いている。工場の煤煙を吸い込んでしまった後のような感覚だ。
「いつまでも眉間に皺を寄せていた場合、顔面がその状態を基本とする可能性があります。我が愛しくも外面のいいだけのマスター」
ヴィディキンスが下らないことを言っているが無視する。
(どういうことだ……?)
頭の中で何度も再生するのは、恐怖のあまり一時的に廃人になったストリンディの姿だ。あの獣のような絶叫が耳からしばらく離れなくて、非常に気分が悪い。お高くとまった上層都市の騎士様のプライドを粉微塵にしてやったにもかかわらず、胸中に飛来したのは予想した高揚感ではなくじくじくとした違和感だけだった。
(あれは「深淵帰り」だ)
俺は紙コップのコーヒーをすすりながら断言する。口内に残るのはコクも風味もない雑な苦味だけ。そんなことはどうでもいい。あのストリンディの姿。俺は、あれと同じものを下層都市の底で見たことがある。禁忌の領域に踏み込んだ愚者の末路。精神そのものを破壊されたヒトの抜け殻が、そこにあった。
(気に食わないな)
思い過ごしという可能性もある。偶然の一致という可能性もある。だが、下層都市の深淵帰りと上層都市の騎士という二種に接点など、本来は絶対ないはずだ。考え込みながら朝食を終えた俺が再び歩き出そうとした時、行く先を塞ぐ形で数人の男たちが立っているのに気づいた。その内の一人が口を開く。
「コンフィズリーだな」
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