赤い貴婦人
「『呪いの絵』だって?」
私は手にしたワインのグラスをテーブルに置くと少し戸惑い気味に言った。
フランツは口許にいつもの皮肉っぽい微笑みを浮かべて、暖炉の横の壁に寄りかかりながら私の方を見ていた。
極々私的な夕食の後のリラックスした会話でのことだ。
「つまり、この間の伯母さんの遺産分けの目録に『呪いの絵』があったって言うのかい?」
「はは、まさか。
目録に『呪いの絵』です、なんて書いてあるわけないだろ」
「じゃあ、何で……」
「目録にあったのは『白い貴婦人』っていう絵さ。だけどそれを見た時にピンと来た。
なんといっても『呪いの絵』の話は僕らの一族では有名な話だし、それを伯母が持っているのも周知の事実だったからね。
だから伯母の財産目録の中にその名前を見つけた時、これが見たら死んでしまうという『呪いの絵』じゃないかと思ったわけさ」
「今一つ話がつながらないな。
そもそも、その『呪いの絵』の話というのはどんな話なんだい?」
「よし!
じゃあ、僕らの一族に伝わる『呪いの絵』の話からしようか」
フランツはワインを一気にあおると、手近な椅子に腰かけた。
「時は今から300年ほど遡る……
知ってると思うが、その頃、僕の一族はこの辺りの領主をしていた。
当時の当主は僕のヒイヒイヒイ……まあ、いいや、とにかく、その当主様は僕の何代か前のおじいちゃんに当たるわけだけど、当時の慣習というのかな、絵描きを雇って肖像画を描かせたんだ。
ほら、玄関ホールの吹き抜けの正面でふん反り返っている黒い服の男の肖像画があったろ?
あれがそうだよ。
『黒の貴族』と呼ばれている。
それで、そのヒイヒイヒイ……ああ、面倒くさい。とにかくその『黒の貴族』のおじいちゃんは自分の分だけでなく奥さんの肖像画も描かせたんだ。
おじいちゃんの奥さん、つまり僕の何代も前のおばあちゃんになるのだけど、たいそう美人だったそうだよ。あんまり美人だったから絵を描いた絵描きに惚れ込まれちゃった。
おばあちゃんの方も満更じゃなかったようで、二人はすぐに懇ろになってしまった。
おじいちゃんとおばあちゃんは大人の事情な歳の差結婚の上に、絵描きは当時、新進気鋭の若い男だったのが良くなかったんだね。若気の過ちってやつさ。
のぼせ上がったおばあちゃんと絵描きは、部屋で二人っきり。絵を描くと称して甘い一時を思う存分楽しんだってことだ。
大胆だよね。
でも大胆すぎた。
結局、すぐにおじいちゃんの知るところになったんだ。
まずいよね。
おじいちゃんは当時、自分の領地にいる全ての人の生殺与奪権を持ってたんだからさ。
おじいちゃんは激怒したね。
まず、おばあちゃんを毒殺。
それから死んだおばあちゃんと絵描きを同じ部屋に閉じ込めた。二週間分の水と食料と一緒にね。
そして、二週間後、さらに二週間分の水と食料を追加したんだ。
その時、キャンバスと絵具を絵描きに渡して、死んだおばあちゃんを描けって命じた。
上手く描けたら命は助けてやるってね。
狂ってるよね。
死後二週間と言えば、どんな美人だって二目と見られない姿になってる頃だ。そいつを描かせようってんだからさ。
そして、二週間後。
絵描きを閉じ込めていた部屋に入ったおじいちゃんが目にしたのは、おばあちゃんの腐乱死体と完成した肖像画。
だけど、絵描きの姿はなかった。
不思議なことに、どこを探しても絵描きの姿はなかったんだ。
部屋は厳重に封をしていたので逃げ出すことなんて不可能だ。
どうしたことかと探し回った結果、おじいちゃんは部屋の片隅にどろどろに溶けた肉の塊を見つけた。
漁らせて見ると中から頭蓋骨が出てきた。頭蓋骨だけじゃない。手や足の骨や背骨やらも見つかった。つまり、その肉の塊は絵描きの成れの果てだったんだ。
自然死なのか自殺なのか良くわからないが、とにかく絵描きはおばあちゃんの肖像画を完成させたあと死んでしまった。死んで腐ってどろどろに溶けてたって話さ。
その後、おじいちゃんは絵描きが描いた絵を自分の寝室に飾ったそうだ。
それから一週間後、おじいちゃんはベッドで冷たくなっていたらしい。
それだけじゃない。その頃から使用人が次々と死んだらしい。
全身が膿爛れて死んだ者、狂い死にした者、手足が腐ってのたうち回って死んだ者、数え上げればきりがないほどだ。
で、死んだ者たちの共通点が絵描きの描いた絵を見た者だってことから、絵描きが描き残したおばあちゃんの絵は、いつしか『呪いの絵』と呼ばれるようになって最終的に誰の目にも触れないように厳重に封印されたんだ」
話を終えるとフランツは立ち上がり、グラスにワインを注いだ。
「君の相続した『白い貴婦人』がその『呪いの絵』だっていうのかい?」
「恐らくね。
見せてもらったらでっかい金属の箱に入れられて鉄の鎖でぐるぐる巻きにされてた。
『呪いの絵』でもなければそんなことはしないだろう」
「箱?
じゃあ、君はその絵をまだ見てないのかい?」
「見てない。見たら死んじゃうからな。
もしも見てたら、今夜君を夕食に招待できてないだろ。
あははは」
フランツは肩をすくめておどけたように笑った。
「まあ、我が一族の悪意に乾杯ってところだね」
と言いながらフランツはワインのグラスを掲げてみせた。
口許が皮肉な笑みで歪んで、酷く醜く見えた。
フランツは今回の伯母さんの遺産分けには大いに不満があったらしい。いわく、本来相続できる筈の半分しか貰えていないと言っていた。
フランツはその毒舌とスキャンダラスな私生活のせいで一族から浮いた存在、有り体に言えば爪弾きにされていた。減らされた遺産の中にさらにそんな曰く付きのものを混ぜられたのも、その辺の事情だろう
とは言え、今回の財産分与でフランツが肥太ることには変わりはない。
例え、貰える遺産が本来の半分だとしても、そこに使えない『呪いの絵』が含まれていたとしても、元貴族の財産分与となると私のような庶民から見ればどれひとつとっても一財産に匹敵する。
世の中はなんとも不公平と言わざるを得ない。
いや、このフランツのお陰で私のようなしがない美術鑑定家が食っていけると思えば、感謝すべきかもしれない。フランツの所有する美術品が増えればそれを管理する私の報酬も増えるのだから喜ぶべきなのだろう。
「と言うことで、だ。
明日、その絵の鑑定を依頼しようと思っている」
えっ、となる私の顔が余程間抜けに見えたのか、フランツはクックッと笑った。
「君は僕の美術品の管理者なんだから、新しく美術品が追加されたらそれの正しい評価をする義務があるよね」
「いや、まあそうだけど」
「明日、見てくれ」
「な、なんだって。急だな」
「君を夕食に招待したのはそのためだよ。
言ってなかったっけ?」
「聞いていないよ」
私は憮然と答えた。絶対にわざとだ。
「当然君も立ち会うんだろうね?」
「いや、僕は用事があってね。朝早くにパリに行くことになっている。
段取りなんかはピエールに申し付けてあるので万事彼に聞いて、適当にやっておいてくれ」
ピエールとはこの屋敷の執事の名前だった。彼のことは私もよく知っている。だが、そんなことはどうでも良かった。私はフランツが立ち会わないことに衝撃を受けた。
「そんな、いい加減すぎる!」
「いい加減とは心外だな。
さっきも言ったが、僕が所有する美術品の査定するのは君の職務だ。
しっかり調べて価値が有るのか、無いのか。持っておくべきか手放すべきかを判断して僕に伝えてくれれば良い。その作業に僕がいちいち立ち会う義務はない。
そうだろ?
それとも君はもしかして『呪いの絵』何てものを本気で信じているのかい?」
信じてるとも!と言いたかったが言えなかった。代わりに私は曖昧な笑みを浮かべた。
話はそれで終わりだった。その後のワインはとても酸っぱく渋く感じた。
「こちらでございます」
ピエールはドアを開けると恭しく頭を下げ、そのまま動かない。
「君は中に入らないのか?」
「旦那様からはマークス様をここに案内するように申しつかっております」
「私がその旦那様から何をしろと言われているかは知っているかい?」
「存じております。先ほどご説明いたしました通り鍵は机の上に置いてございます」
ピエールののらくらした返答に私は苛立ちよりも諦めの方が先にたった。
それでも最後の問いかけをしてみることにした。
「君は立ち会わないのかい?」
「何故ですか?」
ピエールはさも不思議そうに聞いてきた。
「例えば私が絵をガメるとか」
「マークス様に限ってそのようなことはなさりますまい」
「ふ~ん、じゃあ、絵に興味がないかな?
もしかしたら世紀の傑作かもしれないぞ」
「生憎、私め、絵は門外漢でございます」
「ああ、ああ。
分かったよ。一人でやるさ」
私は観念すると頭を下げたままのピエールを廊下に残し、部屋に入った。
部屋の真ん中には鎖でぐるぐる巻きにされた巨大な箱があった。フランツの言っていた通りだ。鎖は箱の上と下のところで結束され、南京錠で固定されていた。鍵がないと鎖が外せない。さらに箱の取手の下にも鍵穴があり、都合三つの鍵に厳重に守られていた。なるほど、確かに中に呪いの絵が入っていると言われても頷ける。
視線を横に向けるとマホガニーのアンティークテーブルの上に大きな鍵が三本、銀色の光を放っていた。
私は鍵を手に取ると順番に解錠していく。最後の鍵を外した後、私は一息呼吸を整えると取手をひいた。
金属の軋む耳障りな音と微かな抵抗だけで取手はあっけなく開いた。箱の中から漂ってくるカビ臭い臭いがねっとりと鼻腔に絡みついてくるのが気持ち悪い。喉も少しいがらっぽくなった。
私は軽く咳をすると箱から絵を取り出した。
絵のサイズは縦1.6メートル、横1.3メートル、いわゆる100号だった。かろうじて一人で持てる。
私は箱から取り出した絵を適当なところに立て掛けた。
ほとんど黒に近い濃い茶褐色のバックに豪奢な服を着た女性が浮き出るように描かれていた。
女の服は純白だった。なるほどそれが『白い貴婦人』と呼ばれる所以なのだろうと納得する。そして、同時に私は顔をしかめた。
美しい服と対比して女性の顔や手は赤黒い班に覆われ膿崩れていた。
醜悪と言うしかない。だが、それこそが絵描きに与えられた罰なのだ。
名も知らぬ絵描きは300年前、殺された恋人と一緒に部屋に閉じ込められた。そして、徐々に膿腐っていく女を描くように強要されたのだ。
絵を描く作業とはまず対象物を見ることから始めなくてはならない。良い絵描きになればなるほど描くものを見る。時にその行為は対象物と己を同一化するほどの集中を絵描きに要求した。
だからこそ、腐った人間を描かせることがいかに残酷なことであったか、想像に難くない。まして、相手は絵描きのかっての愛人の成れの果てなのだ!
「『白い貴婦人』と言うより『赤い貴婦人』と呼ぶべきか」
かすれた声で呟いた時、私は微かな違和感に襲われた。
違和感の正体にはすぐに思い至った。
構図がおかしいのだ。
女は立っていた。正面から緩やかな角度を保ちつつ斜めを向いている。顔は赤く爛れているのでどこを向いているのか判然としないが、顎のラインからやや上を向いているように見える。
私が感じた違和感はまさにそこだった。
顔を少し上げ遠くを見るポーズは肖像画では良くある、未来を見据える希望を暗示させる構図だ。だが、これは死者の肖像のはず。それが何故、そんな希望を象徴させるポーズを取っているのか?
ちぐはぐな絵描きの真意を図りかね、私は混乱した。
良く見ようと私はぐっと顔を絵に近づける。鼻先に赤く弾けたかさぶたが触れる位まで近づく。微かに肉の腐ったような臭いがして、思わず私は咳こんだ。と、絵から赤い微粒子が舞い上がった。
「これは?」
私は持っていた刷毛で軽く絵の表面をなぞってみた。すると、赤いかさぶたが剥がれ、ピンク色の肌があらわれた。
なんと言うことだ。
私は全く勘違いしていたことに気がついた。
絵描きは、死んだ恋人を描こうなど最初から思ってなんかいなかった。
名も知らぬその若き画家は実に当時の絵画の理念を貫き通したのだ。
すなわち理想化して美しく描く。
そして、その行為が自分を閉じ込めた領主に対する強烈な抗議となると信じたのだろう。
「あははは」
私はその名も知らぬ絵描きの心意気に称賛の意味をこめ、声を上げて笑った。
「そう、そういうこと。
最初、見た時はうえ~ってなったよ。
顔全体が赤黒いかさぶたに覆われているように見えたからね。こりゃ、本当に『呪いの絵』だって思ったよ」
電話に向かって私は陽気に喋り続けた。
電話の相手はフランツだ。私は依頼されていた『呪いの絵』こと『白い貴婦人』の鑑定結果を報告していた。
「だけど良く見たら絵の表面に赤いカビが生えていたんだ。それがまるで赤いかさぶたみたいに見えていた。
そうそう、で、そのカビを取ったらきれいな顔が出てきたよ。
えっ?
じゃあ、『呪いの絵』じゃないのかって?
おいおい、『呪いの絵』なんてないっていったのは君だろ。
まあ、あの絵は違うだろうな。死を覚悟した絵描きが最後に見せた意地だよ。
でなければ私が君に電話できる筈がないだろ。
あははは。
うん、うん。絵の価値かぁ。良くできた絵で、年代物だからそれなりの値段にはなるとは思うが、いかんせん、絵描きが無名だからね。おそらくいくら待っても価値はでないね。
えっ?手放した方が良いか?
そうだね。手元に置いておく意味はないね。機会を見て高く売れそうなときに売ることをお薦めするよ。
だけど、少し綺麗にした方がいいな。あれでは売れるものも売れない。
ああ、ああ、分かった。手配しよう。
うん、ではまた、何かあったら連絡するよ」
私は電話を切るとほっとため息をついた。
手に持った手袋を丸める。先程まで絵のカビを取っていたから手袋は薄紅色に染まっていた。手近のテーブルに放り投げるとモワッと赤い埃が舞い上がった。
刷毛でカビを取ろうと3時間ほど格闘して、ようやく顔の上半分が見える状態になったが、後悔した。露になった圧力のある瞳が見るものを射ぬいてくる。それは絵描きが並々ならぬ技量の持ち主であったことを意味する。
全く持って惜しいことをした、と私は思った。早くに死ななければ絵画史上に名を残していたかも知れない。そう思いながら私は絵を布で包み込んだ。
ドアの開く音に振り返ると、丁度ピエールが入ってくるところだった。
「やあ、まるで計ったような正確さだ。
絵が見えなくなったところで登場とはそつがない。では、早速絵をこのメモのところに送ってくれ」
私はメモを渡して言った。
「どちらに送られるのですか?」
両手でメモを受けとるとピエールが聞いてきた。
「知り合いのところ。絵の改修を専門にやるところさ。とにかくカビを落とさないと競売にもかけられない」
「お疲れ様です。お食事のご用意をしておりますので食堂の方へお越しください」
「ありがとう。
部屋でシャワーを浴びてから行くよ。
ああ、その手袋は捨てておいてくれ。酷く汚れたからね。洗うのも面倒くさいだろ」
私はそう言うと部屋を出た。疲れたのだろう。体が少し重かった。
私は激しい喉の痛みに目を覚ます。
年代物の柱時計に目をやると、真夜中の3時を少し回ったところだった。
「ゲホッ ゴホ ゴホ」
咳き込み、身悶えた。
痛い。
咳をする度に喉を針で刺すような痛みが走った。
(風邪をひいたのか?)
全身がヒリヒリ痛む。熱もあるように感じた。
私はベッドから起きるとフラフラと洗面所に向かった。鏡に写る顔を見て、息を飲む。
顔全体に赤い斑点ができていた。それはまるで午前中に見た『白い貴婦人』のあの赤く爛れた顔だった。
恐る恐る斑点に触ろうとして両の手にも斑点が浮き出ていることに気づき、私は愕然とする。右手の小指の付け根はぐずぐずに腐っている。
一体、どうしてしまったと言うのだ。
(とにかく、医者を、医者に診てもらわないと)
私は火照る体を引きずり廊下へと出た。
淡い間接照明に照らされた廊下を抜け、ピエールのいる部屋へと向かう。
「ピエール、ピエール
起きてくれ、医者を呼んで欲しい」
私は喉の痛みを我慢しながらピエールを呼ぶ。しかし、ピエールは全く反応を示さない。
私は痺れを切らし、ドアノブに手をかけた。
ノブは簡単に回った。
鍵はかかってはいないようだ。私は思いきってドアを引く。
ドアはなんの抵抗もなく開いた。と、ドアの影から何かが倒れ込んできた。それを受け止め、私はバランスを崩して廊下に尻餅をついた。
「ピ、ピエール!」
ピエールだった。
ドアを開けたとたんにピエールが私に倒れかかってきたのだ。
「ああ、なんてことだ」
私はかすれた声で叫ぶ。
ピエールの顔も私と同じ赤い斑点に覆われていた。
「ピエール、しっかりしろ、目を開けてくれ」
私はピエールの肩を揺すり、何度もピエールの名前を呼ぶ。しかし、ピエールは白目を剥いたまま、なんの反応も示さなかった。既に呼吸も感じられない。
しかし、私は半ば呆けたようにピエールを揺さぶり、声をかけ続けた。
ピエールの右耳がポロリと腐り落ちた。
ピーーー
白い病室で無機質な電子音が響く。
顔の半分以上を覆うマスクをした男がベッドに横たわる男の顔に身を屈めていた。
持っているライトで二度ほど瞳孔を照らしてみる。やがて、納得がいったのか、男は立ち上がり腕時計に目をやった。
「死亡を確認。午前3時16分」
男は揚々のない声で言った。傍らに控える看護師が黙々と書類に時間を記録する。
「後の処置をお願いする」
男は部屋を出ると、疲れたように深い溜め息をついた。熱いコーヒーが無性に飲みたかったが、男はそれを断念する。それよりも優先すべきことがあったからだ。
男は足早に廊下の先にある部屋へと向かった。
「死んだよ」
部屋に入ると男は言った。
その言葉に部屋の奥に設置されたデスクに座った男が顔を上げた。乱立するディスプレイの隙間から入ってきた男を見つめ「そうか」と無感動に答えた。
「これであの屋敷の使用人は四人死亡と言うことになるな」
「いや、さっき死んだ男は使用人ではないよ。
確か昨日から屋敷に滞在していただけだ。
美術品の鑑定人らしい」
「雇われなんだろ?
使用人と大して変わらないさ。
君、コーヒーが飲みたければそこのポットのを飲んでいいよ」
デスクの男は書類を一束取り上げると立ち上がった。
「それで、我らがエリオット先生の意見を聞かせてもらえないか?」
男は持っている書類をヒラヒラさせながら、念願のコーヒーにありついたエリオットに近づく。
「見解なんてものはないよ。
症例は劇性連鎖球菌、通称人喰いバクテリアによるものに似ている。取りついた人間の筋肉を急速に溶かして死に至らしめる。
僅か数時間で手足がボロボロだ。
しかし、連鎖球菌ではない。別種なのか変種なのかもまだ同定できてない。
多分似て非なる何かだ。
これの怖いのはペニシリンを初め、各種抗生物質がほとんど効かないこととその感染力だな。
おそらく罹患した部位に触れると感染する。
エアゾール感染もするかもしれない」
「救命士と看護師、医師が何人かやられてるね」
書類の束をめくりながら男は言った。
「ああ、不意打ちだ。クソッタレが」
救命士が二人、看護師が三人が罹患していた。その内二人は既に死んでおり、残りの三人も生死の境をさ迷っている。
いや、多分、助からない。遅いか早いかの違いだ、と思うとエリオットは忌々しそうに舌打ちをした。
「それでモールス。
防疫センターの現場責任者としての君はどうこの事態を収拾するつもりなんだい?」
モールスと呼ばれた男は、悲しそうな表情をすると持っていた紙の束をデスクに放り出した。
「どうもこうもね。地域の隔離を厳にするぐらいしか今は打つ手がないな。
取り敢えず感染経路を特定したいがあの屋敷から前が全くたどれない」
「じゃあ、あの屋敷が最初なんだろ」
エリオットの言葉にモールスは目を剥いた。
「まさか、こんな凶悪な細菌があの屋敷に生息していたなんて考えられない。もしもそうだとしたらあの屋敷はとうの昔に幽霊屋敷になっているよ」
「どうかなあ、連鎖球菌も基本はありふれた細菌だ。それがウィルスの刺激でいとも簡単に凶悪化する」
「突然変異だといっているのか?」
「可能性としてある、といっている。
何かありふれた細菌だかウイルスが突然変異で致死性を持ったのかもしれない」
「そんなご都合主義的な――」
モールスの言葉は、けたたましく鳴り響く電話のコール音に遮られた。
電話に出たモールスの険しい顔は話し込んでいくうちに更に険しくなった。
受話器を置くとモールスはしきりに顔を撫でる。それはモールスの困ったときの癖だった。
「西地区の病院に同じ症例の患者が担ぎ込まれたそうだよ。夕方家に帰ってから容態が悪くなったらしい」
モーリスは壁に貼ってある市街地図を見た。
「と言うことは仕事場で罹患した可能性が高いのか。患者の勤め先は分かるのか?」
「ゴミ分別業者らしい。
……場所はここら辺。
例の屋敷からかなり離れている。
えらい所に飛び火したな。
一体全体どうなってるんだ?
とにかく付近を閉鎖するしかない!」
モールスは地図を見ながらぶつぶつと呟いていたが、慌てて電話にとりつくと関係各所に慌ただしく連絡を取り始めた。
パリの郊外。
赤い屋根の洒落た建物の一室で、髭面のでっぷりした男が昼食のハンバーガーにかぶりつきながらテレビを見ていた。
テレビ画面では女性キャスターが深刻な口調で隣国の伝染病のニュースを伝えていた。
《3日前から始まった極めて毒性の強い細菌による被害は当局の必死の防疫活動にも関わらず拡散を続けています。
既に移動制限のかかった都市は三つに及び、その数はさらに増える可能性があります。
該当地区の皆様に置きましては……》
とドアが開き、女性アシスタントがヨロヨロと入ってきた。自分の身長と同じぐらいの大きさの箱を抱えていた。
「ボス。なんか荷物が届きましたよ」
アシスタントは作業台に荷物を置くと言った。
「ああ、見りゃわかるよ。誰からだい?」
「えっと、マークスさんからです」
「マークスさんね」
男はハンバーガーをモグモグと咀嚼しながら答えた。
「そう言えば、マークスさんって今、伝染病で大騒ぎになってる所に行っているんですよね。大丈夫なんですか?」
「さぁ、どうだろう。連絡が取れないんだよ」
男の答えにアシスタントは驚きの声をあげた。
「えっ?ヤバいじゃないですか」
「大丈夫だよ。仕事の内容は聞いているから。
絵の清掃を頼まれている。カビをきれいに除去してくれって話だ」
「いや、仕事の話ではなくマークスさんのことですよ。この伝染病って薬が効かないから、かかったら100%死んじゃうんでしょ?」
「ま、大丈夫だろ。移動制限がかかってだけで街中の人間が伝染病にかかっている訳じゃないんだから。
さてと―――仕事を始めましょうかね」
ハンバーガーを食べ終わった男は指についたソースを舐めながら立ち上がった。
箱を開けると白い布にくるまれたものが入っていた。
男がその布を取り除くと『白い貴婦人』が姿を現した。顔の半分が赤いカビのようなもので覆われていた。
「それでは奥様。きれい、きれいしましょうねぇ」
男は機械を取り出すと勢い良くエアを絵に吹き掛けカビを吹き飛ばした。
エアに飛ばされたカビは空中に飛散した。そして、排気菅を通って屋外に排出される。
カビはキラキラと日の光を反射させながら、街中に散っていく。
ゆっくりと
ゆっくりと
2018/12/19 初稿
2018/12/26 誤記修正&文章一部変更と追加
2019/06/20 誤記修正&文章一部変更と追加