敵わぬ力
一歩踏み出した街は悲惨なものであった。ガラスは散らばり、路面店や一階はほぼ壊滅状態であった。
そんなガラスを気にもせず裸足の発症者たちはザリザリと歩いている。痛覚はないらしい。カァカァと鳴くカラスたちに、遅い足で近づく。聴覚で認識しているようだった。
ア……ア……と繰り返す人々に雄太は顔をしかめた。人間だったもの、といったほうが正しいほど、理性もなにもなかった。
一言でも喋ったら終わりだと、革ジャンに入れ込んだマフラーに口を埋め、汗をダラダラと垂らす。雄太のほんの5メートル先を、発症者が歩いている。ニュースでは徐々に発症者を隔離している街もあると報じていたが雄太の住む街まで手が回っていない様子であった。
すると遠くから、警官の服を着た人が歩いて来る。雄太は、警官だ!と静かに近づく。だが雄太の歩みが徐々に遅くなっていった。
それは、警官ではなく、‘‘発症した”警官であった。
「おいうそだろ……」
雄太はマフラーの中でぼそりと呟く。警官が、雄太のすれ違う。他の発症者と同じように、ただ母音を発しているだけであった。想像以上の酷い有様に、雄太はダラダラと汗を垂らしながら薬局へ足を進めた。
「助けてくれーーーー!!!」
そんな大声が後ろから響いた。
すると、前にいた発症者たちが一斉に声の方向へ歩き始めた。雄太は後ろを向くとすでに2、3体に掴まれている男性がいた。雄太は息が荒くなる。
呆然と見ているその瞬間も、雄太の背後からゾロゾロと歩き男性へ集まっていく。人間としてのリミッターが外れているのか、男性のジーンズ生地のジャンパーを引き裂いている。その姿を見た時、雄太は今まで流れていた汗が引くようだった。
おい、うそだろ
この格好は意味ねぇってことかよ
そう思うと、雄太は一気に怖くなった。たとえ裸でも雄太のように防備していても、声ひとつ出せば同じじゃないかと雄太は思った。
やがて男性の声も聞こえなくなり、残ったのは男性の着ていた服と‘‘人間だったモノ’’であった。赤黒い血は乾いたコンクリートに気味悪く映えた。
ダラダラと汗を垂らし雄太は上がった呼吸をマフラーに染み込ませ、さっきより慎重に歩みを進める。
やっとついた薬局は、他の店も同様、ガラスが割られていた。入りやすくて都合がいいと割れたガラスから侵入する。パリ、とガラスを踏んでしまい息を飲む。周りを警戒しながらも、抗生物質の棚へ一直線に歩いた。
こんな世紀末のような状態だからだろうか、みんな思うことは同じ。解熱剤や包帯、シップなども盗られたのかなくなっている様子だった。
……しょうがねえよな
音を出さないようにゆっくりと棚を開ける。大目に錠剤をとる。幸い、薬局内に発症者はいないようだった。そう1人で自問自答し、長居は危険と判断した雄太は、錠剤と軟膏だけ取るとすぐに薬局を出る。先ほどのものを見たら、もう外になんかいられないと言うように、無意識に足は早く動く。
もうすぐ家だと曲がり角を曲がった時。
「ッ……!」
雄太のほんの2メートル……1メートル先に発症者がいた。
口をだらりと開き、訳のわからない言葉を発しながら発症者は前進していた。
雄太は、そろそろと後退する。発症者は、足を引きずりながら進んでいる。
「ハアッ……ハアッ……!」
一気に上がってしまった吐息に、微妙に反応する。発症者のぼろぼろになった皮膚が鮮明に見えるほどの距離であった。その横、1メートルをすれ違う。
やばいぞ、これは
手で口を押さえ、そろりそろりとその発症者から遠のく。5メートル、10メートル……蠢く人間だったものは遠く小さくなった。
「フウッ……フゥッ……」
雄太にはかっぴらいている目に汗がはいろうと気にする余裕は無い。雄太の、気の緩みからの事故であった。曲がり角を曲がり、発症者は見えなくなる。よく声を出さなかったものだと自分を褒めた。
一瞬たりとも気が抜けない外の空間で、雄太は汗2リットルくらい出たのではないかと、汗だくで華に話すことができた。
そんな話に華は顔をしかめたが、雄太は帰宅できたのである。雄太は無事、薬局から薬を取って来ることに成功したのであった。