喧騒と静寂と
感染されたネズミがギュウギュウと鳴く。その声は、研究員の絶望の音であった。
「どうしろっていうんだよ……」
ケージに入れられた数匹のネズミを前に、呆然と立ち尽くす。ケージの中のネズミは、目を爛々とさせながら仲間を傷つけていく。ネズミからすると、仲間でもないのだろうが。
「……また、初めから……」
「そんな時間あるのかよ」
男の研究員が、乱雑に机を叩く。無精髭を生やし、クマを作っている男に余裕などなかった。当然、周りの研究員も同じである。
「“コイツら”が生きてるのかすら俺たちにはわかんねえだろ」
透明のケージをゴツと殴る。その振動に驚いたのか、中のネズミはギュイギュイと鳴きながら壁を引っ掻いている。もし、ケージが倒れてネズミが逃げたなんて言ったら、この研究所に菌をばら撒くことになる。そんなことをしたら、もう1ミリの望みすらなくなってしまう。
「危ないことしないで」
「うるせえなあ」
男はマクスを引きちぎるように取ると、床に投げ捨てた。
「さっさと殺しちまえばいいんだよ」
「いい加減にしなさいよ」
笹川がギロリと睨むと、クマを作った目をぎょろりとさせて男は不敵に笑う。疲れた目とやつれた頬、伸びきったヒゲはまるで浮浪者のようであった。
「なにがいい加減にしなさいよ、だ。正しいことだろ、早く殺せばこの騒ぎも収まるぜ」
「治るかもしれない苦しんでる人はどうでもいいっていうの」
「かもしれねえ、だろぉ?!」
いきなりの男の大声に、笹川はびくりと肩を跳ねさせる。低い声がビリビリと鼓膜に響く。
「隣の部屋の、藤田とか言ったかなぁアイツ。……アイツが総理の“お気に入り”だからこんなに判断伸ばしてるんだろ」
アイツのせいで、と付け加えて、笹川を睨む。
「口を慎みなさいよ」
「口を慎みなさいよ、だってよ」
なあ!と後ろにいる研究員たちに笑いながら問う。もうこの研究所の空気も限界であった。この症状を解明しようと、ピンと張りつめた空気も、先程の男の怒鳴り声でプツプツと切れていく。目を伏せるもの、マスクを取り始めるもの、笹川を睨むもの。
「ハッ、なんだよ。笹川サンも、先生の“お気に入り”かぁ?」
気持ち悪い笑いでニタニタと口角を上げる。
「あなた……」
ゴム手袋をした拳を強く握りしめる。そんな笹川を見ながら、男は、ああ、と閃いたように呟く。
「あの若え、ボディーガードも“お気に入り”かぁ?」
笹川の目の前が真っ暗になる。プツ、と何かが切れると音がした。怒りの頂点に達すると、本当に切れる音がするんだなと冷静に思いながら、視界が晴れると男の胸ぐらを掴んでいた。
「笹川サン、暴力?」
男は余裕な顔をしていた。当たり前である。笹川の女の華奢な腕で殴ったところでたかが知れているし、殴られ返されでもしたら大変なのは笹川の方である。柄にもなく息を荒だてている笹川は、掴んだ手を力を込めた。
「……謝罪なさいよ」
「はあ?」
「犠牲になってくれた藤田さん、身を粉にしている先生……私たち、あなただってそうよ」
笹川がポツリポツリと話し出す。
「自分を盾にしてまで守ってくれてる森宮、……いま現在苦しんでる人」
「ハッ、なに綺麗事……」
「謝りなさいよ!!」
聞いたこともない笹川の大声に、部屋の空気が揺れる。
「クソ女、調子乗りやがって!」
その強気な態度にカチンときたのか、屈強な手を振り上げる。
「ちょっと!!!」
響いたのは、殴ろうとしてる男でも、笹川でもない。後ろの群衆に紛れた1人であった。研究所にいる大勢の視線が、1人の研究員に注がれる。
「これ……これ」
ペンを持った手がカタカタ震えていた。笹川は、掴んでいた胸ぐらを放すと人ごみをかき分け声の元へ向かう。大きなメガネをかけた若い青年が、ハアハアと肩を上下させながら一点を見つめる。青年の激しく跳ねる動機がこちらにも聞こえてきそうなほど、戸惑っているのが目に見えてわかった。
「どうしたの」
「この……このマウス……」
丸メガネの奥の目が、これでもかというほど開いていた。何事だと笹川は目線の先のゲージをみる。
その先にいたのは、白いままキュウキュウと鳴き、チョロチョロと甲斐甲斐しく、可愛らしく、透明のゲージを動くマウス。
「発症……してない……」
震える手からペンが落ちる。
カツン、とパンの落ちる音が部屋に響く。
笹川の唇が震える。
遠くで、電話の音がなっていた。




