始まりの日
「ねえ、ゆうくん見て」
キッチンで麦茶を飲んでいた鈴木雄太に、彼女の佐々木華が声をかける。テレビに釘付けの様子だった。大きな目がこぼれ落ちそうなほど見開いている。
「なに、事件?」
そのただ事ではない様子に、グラスを持ったまま華に近付くと、華はテレビに釘付けのまま、ちがうとそれだけ答えた。
「なんかのイベント? ドッキリ?」
そういい、雄太もテレビに目をやると、ニュースキャスターがヘルメットをかぶり実況している。
カメラはぶれ、かなり焦っている様子だった。
『こちら、都内で、ゾンビのような症状の人が多数現れていると情報が……うわぁぁ!!!!!』
突然映像が乱れる。目が虚なサラリーマンがキャスターに襲いかかっていた。ガチャガチャと機材のぶつかるような音がし、カメラマンがキャスターに逃げろ、と叫び中継は途絶える。中継を切られたテレビ局のアナウンサーたちと同様、2人もその様子に呆然とした。テレビの中はそれでも不自然なほど平静を保っていた。
『映像が乱れまして……』
「え、これ本当?」
雄太はテーブルにグラスを置き、華と同じく目を見開く。
「でもこれ、本当の報道番組だよ……しかも、近所」
こわい、と少し近づく華の肩に手を回すとテレビから速報が流れた。
「緊急避難指示だって……うちの地区も対象だよ」
そのテレビの上に出る文字は、続いて「噛まれないように」であった。2人、沈黙が流れる。カラン、と氷のぶつかる音が嫌に響く。部屋の空気が一瞬止まったようだった。
麦茶の入ったグラスの結露と同じように、雄太の額にも汗がジワリと滲んでいる。外の喧騒がうるさかったが、世界がテレビの音だけになったかのように、それだけしか聞こえてこなかった。うそ、と小さく呟きで、雄太は我に帰った。涙目になる華の肩に回した手に力を込める。
華が雄太の手を握る。2人の心臓はバクバクと早くなっていた。当然雄太も恐ろしいのだ。手を回した肩に汗でジワリとしみていく。段々と息も上がり、瞬きも少なくなっている。
しかしここで雄太も同調してしまえば華の不安は倍増してしまうことも長い付き合いの中でわかっていた。ばくばくと跳ねる心臓を抑えて、平静を装った顔をして言う。
「大丈夫、とりあえず避難準備しよう」
「……うん」
そういうと、リュックに下着や衣服などを詰め込み始めた。いるかもわからない懐中電灯も詰め込むと、華が問いかける。
「ねえ、これ、どうなるんだろう」
ていうか本当なのかな、と呟きながら準備する華に、雄太は言った。いまだに現実味がない話であったため、疑いが大きかった。
「漫画や映画みたいになったりしてな」
パンデミックみたいな、というと華は、冗談やめてよ、本当に怖いとすこし怒り気味にいう。雄太はケタケタと笑いながらごめんごめんと謝るが、目は笑えていなかった。すこしの沈黙の後、雄太がごくりと唾を飲む。
「大丈夫、そしたら俺が守ってやるから」
「……かっこいいね」
だろ? と冗談めかして言ったものの、ロマンチストでもなんでもない雄太は気恥ずかしく、耳が真っ赤になっていたのを見られまいと下を向き準備を続けた。
しかし、なんだか久しぶりに格好をつけれたようで雄太はまんざらでもない様子である。
「でも、自衛隊もいるし警察もいる、漫画みたいにならないと思うけどね」
残っていた麦茶を一気に飲むといっぱいに詰めたリュックをパンと叩き、行くか!と意気込む。華は長い髪を一本結びで結び、歩きやすいようにスニーカーを履いた。玄関に行くと雄太は傘を手に取る。
「外晴れてるよ?」
「護身用だよ」
そういうと、華は一瞬きょとんとして、「傘で?」と言った。
「な、何だよ、うちにはゴルフクラブとかバットねえから!」
傘で精一杯だろ、とすこし顔を赤くして言う雄太が愛しく見えた華は、頬にキスをした。鳥の啄ばむような、軽いキスをした後、華がトンと寄りかかる。
「……ゆうくん、行こっか。」
そう言い強く手を握る華の手を握り返し、雄太は決心しドアを開けた。2人の手にはじんわりと汗が滲んでいる。
キョロキョロと周りを見ると人が一斉に道路に出ていた。その様子はこの市出身のメダリスト凱旋パレード以来の人出……いや、それ以上だと雄太は思った。
「市役所が避難場所だったから、あの通りから行こう」
「うん」
サイレンがけたたましく鳴る。まるで世界が終わるかのようなざわめきだった。焦っているのか、中々鍵が刺さらない。やっとのことで鍵をかける。もつれそうな足を動かしながら、階段を降りていった。一段一段降りるたび、ガクッと膝が落ちそうなほど恐怖で震えていた。
「やっと、一階だ。走るよ、華……」
雄太の視界の端に、なにかが動いた。
華の足を、何かが掴む。その瞬間、華の、ヒュッと怯えた喉のなる音がした。
「華っ!」
雄太は咄嗟に華の腕を引き寄せ、その視界のものを傘で殴った。
「ア……アア……」
床に倒れていたそれは、映画や漫画で見るゾンビ、そのものであった。目は虚で口は空きヨダレを垂らしている。匍匐前進で地面を這ってきたのであろうか、動きは遅くザリザリと這うだけであった。砂利道や落ちているゴミもよけないのであろう、腕はボロボロになっていた。
雄太は華の手を掴み、道路を駆け抜けた。
「うそ……本当に……」
「華! け、怪我は?! 大丈夫か?!」
「すこし、足首を浅くひっかかれただけ」
噛まれてはないことに安堵し、本当にゾンビがいるんだと2人は慄く。急に走り出したためバクバクと心臓は脈を打つ。もちろんその動悸は恐怖からでもあった。二人は顔を見合わせ、ハアハアと息を整える。
「……と、とりあえず、はやく市役所にいこう」
「……うん」
雄太の汗ばむてで華の手を取り、また、走った。足が回らない華をぐいと引っ張り連れて行く。華は、細い足を一生懸命に回した。ハアハアと息が切れ足はもつれそうだが、止まってはいけない、止まったら死んでしまう。そう思うほどに、先ほどのゾンビに掴まれたことが衝撃的だった。当然である。華の足が、疲労からかがくんと一瞬落ちる。
「あっ!」
「大丈夫?!」
「う、うん!」
ズ、と足を引きずる。白い足に、赤く、すこし地が固まった赤黒い線が引かれている。
ジクジクと、鈍い痛みを、華は見て見ないふりをした。