景之玖 霧の衣
「このあたりでいいだろうか」
橋の欄干にもたれかかりながら内海を臨む。
海には、幾つかの小舟が静かに浮かんでいる。朝の空気は、さすがに身を凍えさせる寒さだ。
「これは、さっそくやらないと身がもたないな」
いそいそと、持参した酒瓶の封を開けた。
しっかりと用意したぐい飲みに酒を注ぐと、まずは一杯あおった。
爽やかな酸味とともに、甘口の酒が身体に染み渡っていく。
「甘露、甘露。これで、寒さにも耐えられそうだ」
ゆっくりと火照ってくる酒の暖かみを感じながら、川の上流の方へと視線をやった。
時間とともに、そこかしこからゆっくりと白いもやが立ちのぼってくる。
わきあがってくるもやは、大地の息吹のようにも思える。それとも、ここで生きる物たちの呼気がより合わさってできた、生命の狼煙だろうか。
「観望ですか?」
いつの間にか、横にきていた娘が声をかけてきた。
「ええ。これは見る価値ありと聞いてきたものですから。それにしても寒い。いかがですか? いや……」
おもわず酒を勧めてしまい、若い娘にそれはどうかと思いなおす。
「いいえ、戴きます」
ニッコリと微笑みながら、娘がぐい呑みをねだった。予備のぐい呑みに酒を注いで手渡す。
いい飲みっぷりだ。
さて、そろそろであろうか。
もやが一段と深まったような気がした。
「きますよ」
娘が、言った。
川の上流から何かが押し寄せてくる。
大地から立ちのぼったもやがより合わさって大きなうねりとなり、深き霧の塊となって、川を押し渡ってきたのだ。
「これが、あらしか」
押し寄せる霧の圧倒的な迫力と、あまりにもそれに似つかわしくない静けさが、この世の物とも思えない不思議な景観を作りだしていた。
「あれは、山より出でて、海へと還っていくのですよ」
娘が言う。
川を押しつつむようにして霧は流れ、やがて、この橋をも呑み込んだ。一瞬にして、視界のすべてが白一色につつまれる。
霧はそのまま海へと流れ出し、静かに広がりながら、小舟や鳥たちをも呑み込んでいった。
すべてのものが、この土地の息吹に呑み込まれ、そして、息吹はすべてのものの中へと還っていく。
「すごいものでしたね」
声をかけたが、娘の姿はすでになく。欄干に空のぐい飲みが残されているだけであった。