景之肆 雨に立つ
梅雨は、雨が降るものと相場が決まっている。
「とはいえ、この雨はちょっと酷いかな」
「何を言ってるんです。酷いなんてものじゃないでしょが」
タオルの隙間からのぞいた髪の毛から、まだポタポタと水の雫を滴らせながら、上方の友がぼやいた。
書斎の窓から見える外の風景は、これ以上はないというほどの酷い土砂降りだ。
草は雨に叩かれてひれ伏すようにうなだれ、地面にぶつかって跳ね返った雨粒は霧のような雨煙となって庭全体をつつみ隠している。小太鼓を連打するような音は、加藤の書斎の窓など簡単に突き抜けて、部屋の中でこだましていた。
「何も、わざわざこんな時に呼び出さなくてもいいじゃないですか」
ずぶ濡れになった上方には災難だったが、予想もしていなかった豪雨であるのでいかしかたがない。
「いやいや、こんな時ならばこそ、これで気を晴らそうかと思ってね」
そう言って、加藤は酒瓶を卓の上に置いた。
「どうだい、古酒の三十年物だよ」
「それは凄い!」
思惑通り、驚きの声が耳をくすぐる。それを聞いて、思わず満足気な笑みが零れてしまった。
「ずぶ濡れの見返りだ、さっそくいただこうじゃないですか」
急かされて、古酒の封を開けた。
湿気った雨の匂いに占有されていた部屋の中に、古酒独特の芳醇な香気が鮮やかに広がる。まさに一掃するという言葉が似つかわしいほどに、世界が変わった。
グラスに注がれた古酒は、すばらしい琥珀色をしている。その色艶といい、芳醇な香りといい、ブランデーだと言っても信じる者がいそうである。
もちろん、両者は似て非なる物。それぞれが内包している物は、酒が生まれた土地と年代その物であり、酒の中には一つの世界がある。
そう考えると、琥珀色ということには、深い意味があるように思えてくるから不思議である。
琥珀は、樹木の樹脂が固まって宝石と化した物だ。はたして、それは、物質が時間によって変化した物なのだろうか、それとも、時間が物質に変化していった物なのだろうか。
「相変わらず、変わったことを言う御仁ですな」
「封印された時間には、何かが隠れているということさ。それを探して楽しむのもまた粋だろう」
「粋どころか、今の旦那の家の庭のように、雨に煙って、灰色で何も見えないという感じですよ」
上方がさっさと興味を酒の方に移したので、二人して待望の酒に口をつけた。一口含んだとたん、香気が口の中一杯に広がり、収まりきらなかった分が鼻へと抜けて至福の刺激を作りだす。
「さすが、三十年物」
満足そうに、上方がつぶやいた。
「そう。今私たちが口にしているのは、封印されていた三十年の時の結晶さ」
「琥珀と同じと言いたいのですかい」
「この酒がふつふつと香気を高めてきた三十年の時に思いを馳せるのは、良い酔い心地だとは思わないのかい。私たちはその三十年の眠りの封印を解いたんだ。何かまったく予期しない物が、その合間から現れても不思議じゃないだろう」
「それはいいですけど、何か現れるのであれば、こう、何か一つ、あてのような物がほしい感じですな」
酒宴としては食べ物が少し物足りないと、難波が言った。
「ふむ、食べ物だけが酒の肴ではないが。まあ、何かつまむ物でも作ろうか。おや、いつの間にか雨もあがっている。どうやら、通り雨だったようだな」
談議に熱中するうちに忘れていた雨音が、気がつけば本当に消えていた。未だ残る雨煙に、日の光がさす。
窓の外に目をむけてみると、酒の肴とするにふさわしい景色が、そこに現れていた。
「やあ、見てみろよ、虹が立った」