景之参 路地の先
温泉街は背戸屋と呼ばれる細い路地が入り組んでいて、初めて訪れた者にとっては迷路を進むようで面白かった。
そこここから立ち上る温泉の湯気が、霧のように路地の風景をなかば隠している。
この湯煙の先に隠されている部分には、いったい何があるのだろうか。それは、今見えている風景と連なる物なのだろうか。それとも、それらとは違う、何かの驚きを隠しているのだろうか。
勝手な想像を楽しみながら、路地を散策していった。
途中で、温泉の蒸気で作られた蒸し卵をいくつか手に入れる。後で、酒のつまみにしようという算段だ。
いくつかの角を曲がって、新しい通りを視界に納める。少し進んだ先が開け、東屋が見えた。
「立ち寄り湯かな」
小屋根の下に、浅い湯船と、それをとりまく腰掛けの座があった。まるで囲炉裏を囲むように、湧き出す温泉を囲んでゆっくりと足をつけられる。
「これは、ちょうどいい」
履き物を脱いで、嬉々として足を湯に浸した。温泉から伝わってくる熱さが気持ちいい。軽い疲れが、あっという間に退いていく気がする。
腰を据えると、巾着に入れおいた徳利を取り出して栓を抜いた。宿で手に入れた地酒だ。
蒸し卵を肴に、さっそく一杯始める。淡くたちこめる湯煙の中、酒のほのかな甘みと香りが心地よく広がる。
「お酒?」
ふいに幼い声がして横を見ると、赤い半纏を着た子供の兄妹が、物珍しそうにこちらを見ている。
「ああそうだよ」
好奇心に満ちて見つめる瞳に、大人としてちょっとばつが悪い感じがした。
「坊やたちにはまだ早いなあ」
「そんなことはないよ。すぐに大きくなるんだから。次に会った時は、一緒に飲めるさ」
言いはる兄が、なかなかにかわいい。
「それは楽しみだ」
心の底からそう思う。子供の成長を楽しみにしない大人など、いるものだろうか。
「あたしはいらない」
妹が、興味なさそうに言った。
「どれ、ではこっちを一つあげよう」
そう言って、加藤は蒸し卵を一つ子供の方へと転がした。
「ありが……ああっ」
お礼を言った子供の手前で、転がる卵がふいにむきを変えてその手をすり抜けた。ぽちゃんと飛沫をあげて、お湯の中へと蒸し卵が落下する。
あわてて湯に浮かんだ卵を取りあげた兄は、うっかりと半纏の袖を濡らしてしまった。
「大丈夫かい?」
ちゃんと手渡せば良かったかと少し反省した。
「平気だい。ちょっと油断しただけだよ。でも、後で風に当ててちゃんと乾かさなくっちゃ」
拾いあげた卵を妹に手渡しながら、兄が言った。
「僕には投げていいよ。上手に受けとめるから」
「よし、いくぞ」
蒸し卵を投げると、言葉通り、兄がみごとに受けとめた。
喝采を送ってから、三人で仲良く蒸し卵を食べる。
蒸し卵と足下の湯から、全身へ内と外から温かさが行き渡る。この染み渡ってくる暖かさこそが、温泉の持つ力その物なのだろう。
「坊やたちは地元かな」
「うん。この時期には、いつもここに出してもらえるんだ」
たわいもない話で、子供たちとの会話を楽しんだ。
「もうそろそろ行かなくちゃ。今日はお祭りで、コイノボリがあがるんだよ。みんなが待ってるんだ」
ふいにそう言うと、子供たちが温泉から飛びだした。呼び止める間もなく、その姿が湯煙の中に消える。
頃合いかと思って、自分も足湯から出ることにした。
湯煙をくぐってのんびりと進むと、ふいに風で視界が晴れた。
川が見える。
そこには、何百というコイノボリが風に泳いでいた。