景之拾壱 文字の力
「正月そうそう呼び出すから何ごとかと思えば、書き初めとはまた古風なことですな。いや、子供みたいだというべきかいな」
畳の上で格好を崩して座った上方が、やれやれといった顔で言い返した。
こちらはといえば、座布団の上で正座をし、小卓の上で一心に墨をすっている。
「書き初めは、りっぱに大人の所作だと思うのだが。君も一つ一年の計としてどうかな」
「まあ、それは旦那が何かを書いた後にしまっさ。時間はたっぷりありそうだから、それまでは一杯やらせてもらうとしましょう」
勝手知ったる他人の我が家とばかりに、上方が酒を探しだしておせちをつまみに一杯やりだす。
「それにしても、先ほどから墨をすってばかりじゃないですか」
ずっと姿勢を崩さずに墨をすっているので、いつ文字を書き始めるのかと上方に訊ねられた。
「もう書き始めているのだが。気づかなかったのかい」
「それはそれは」
わざとらしく、上方が感心して見せた。
「墨をするところから、書き初めは始まっているのだよ。なにしろ、最高級品の油煙墨だからね。おろそかにはできないさ」
硯は亀の象眼がみごとな赤間硯で、墨の方は金文字と鶴の象眼が施された鈴鹿墨だ。
「なんとなくもったいないと感じるのはわいだけですかねえ」
手酌で酒を注ぎたしながら、上方が数の子をぽりぽりと噛み砕いた。
「言霊を綴るのだから、まずはこうして墨に魂を込めなくてはね。どれ、もうそろそろいい頃合いかな」
墨の濃さが満足できる物になったので、ようやく筆をその手に取った。
筆の穂先が墨の中に浸される。
「さて、筆が墨を吸い上げているのだろうか。はたまた、墨が筆に染み渡っていくのか」
「邪念が多いとちゃいますか?」
こちらの呟きに、上方が茶々を入れる。
「まあ、今捨て去るから待っていてくれたまえ」
そう言うと、半紙の上に筆をすべらせていった。
さらさらと、一文字が半紙へと書き移されていく。
「まあ、旦那らしいというか。今年の抱負なのか、邪念をそこに移して捨て去ったのか、よくわかりませんな」
「どちらにとってもらっても、それはそれで面白いさ」
手に持った半紙には、きっちり『酒』と書いておいた。