景之壱 桜餅
庭の桜は、書斎の窓を一幅の絵画へと変える。
近づけば、視界は薄紅色に染まり、風に舞い散る花びらは自由に部屋の中へと入ってくる。
離れれば、その窓枠に腰かけた和装の趣味人をも、自然と風景の一部として取り込んでしまう。
「風流だねえ」
玻璃で作られた涼しげな升を掲げれば、舞い落ちたひとひらの花びらが、桜色した酒の上でうなずくようにゆれた。
「やれやれ。酒飲みなんぞに、風流を語られてもありがたみがない。そうは思いませんかい、立風堂の旦那」
上方の友にはそう言われてしまうが、まあ返す言葉もない。
とはいえ、窓枠に凭れた自分の姿は、悪くはない。ゆったりとした長着と相まって、思いのほか背後の桜に似合っているのではないだろうか。そんなふうに、自画自賛。
「桜づくしの茶会だと言うので、せっかく上等な桜餅を持ってきたってえのに。茶会ではなく、飲み会だったとは……。酒のつまみに和菓子をねだるとは、まったく酔狂なものですな」
「花を愛でるには、無粋な肴よりも、桜餅の方が面白いじゃないか。ささ、君も一杯」
面白いの一言で何事もすませてしまう。実に、らしいではないか。まあ、いつものことだ。
上方のさし出す升にも、桜色の発泡酒が注がれる。
囁きにも似た音とともに、小さく泡がたった。
「わざわざ酒まで桜の色に合わせるとは、相変わらずの凝り性ですな」
これだから趣味人というのは……。上方が苦笑いする。褒めているのだか、呆れているのだか、いや、その両方なのだろう。
「季節限定の酒でね。保存が利かない」
瓶内発酵の酒は、まだ生きている。
「なるほど。それは、飲まねばなりませんな」
遠慮もせずに、上方が桜の香りと共に酒を飲み干した。
「お替わり」
「早い早い」
嗜むという気持ちはないのかと、ちょっと酒を惜しみながら注いでいく。
「気が抜けては、もったいないでしょが」
うそぶきつつ、上方が軽く升を掲げた。それはそうだと、同じく升を掲げて、一緒に大義名分を飲み干していった。
「そうそう、おみやでしたな」
升を傍らにおくと、上方が持ってきたつつみをガサガサと開き始めた。
経木の中から現れたのは、桜の葉の塩漬けにつつまれた餅だ。薄紅色に透き通った餅の中には、餡がつつまれている。
「ほう、うまそうな道明寺だ。私の言った桜餅とは違うが、これはこれで……」
満足気に言うと、上方がピクンと眉を動かした。
「何をおっしゃる。これぞ桜餅」
「いやいや、関東で桜餅と言えば、焼いた薄皮で餡を巻いて、桜の葉でつつんだ物だよ」
「それは、長命寺餅やろ。桜餅と言えば、こちらが正当!」
さすがに、ここは上方も譲らない。
ささやかな違いと言えば、ささやかで、まったくの別物と言えば、別物。者が違えば、物も違ってくると言うことか。
「薄皮が、桜の花弁に見える。それが桜餅でなくして、何を桜餅と言うのだい」
「いやいや、この輝く粒々を見てみなはれ。満開の桜の樹そのものやないか」
なかなかに、双方引こうとしない。
とはいえ、今目の前にあるのは道明寺だけだ。食べるのであれば、これしかないではないか。
「よし、では試してみよう」
横行に宣言して、さっそく一つをつまむ。ゆっくりと、薄い桜の葉を剥がして……。
「ちょ、ちょ、ちょっと。何してはるんや。桜の葉は、こうして一緒に食べるものや」
言うなり、上方が葉っぱごと桜餅にかぶりついた。
「うんうん、この塩味が、また……」
「ふむ。だが、あまり葉を食べると腹を壊すと聞いたことがあるが」
「食べ過ぎはよくあらへん。そゆうこっちゃ」
まあ、そういうものなのだろう。今度は、葉のついたままいただいてみる。
「ふむ、これはこれで」
「悪くないやろう」
なんだか、してやったりという顔で、上方が同意を求めた。
「だが、桜餅の座を明け渡していいかどうかは……」
「何を言いなさるか。明け渡すも何も、桜餅の名前は、遙か平安の御代から、この桜餅の物と決まっとる」
論ずべくもないと、上方が勢いよく酒をあおった。
「いやいや、それはこちらの桜餅を食べてから言ってもらわないと」
空になった上方の升に酒をつぎながら、負けじと言い返す。
「おいおい、明日も酒宴か」
上方が、呆れた。
「それもまた面白いじゃないか。なんなら、桜餅の他に、桜餡を使ったあんパンも供しようじゃないか」
この時期、桜の花を使った食べ物は意外と多い。
「またまた桜づくしか」
やれやれと、上方が溜め息をつく。
「風流だろう」
したりと、言ってやった。
「それは、酔狂と呼ぶのだよ」
「粋狂も、また風流なのだよ」