1-13-4.ガーランドの六元素説と、バドヴィア魔法学
あらゆる感情の中で「怒り」が最も風化しやすい、とは、さて誰の言葉だったか。
成果の出ないことよりも、手応えのある物事の方が、当然取り組んでいて面白い。二か月も経った頃には、最早アルセステへの復讐の想いは心の片隅に追いやられ、毎日の授業に臨むことの方が面白くて仕方なくなってきていた。
「バドヴィア魔法学に於ける、上位という概念には何か特別な意味があるんでしょうか。なぜ、地水風に対して、火が上位概念なんでしょう」
真剣な心持で、ティリルはフォルスタ師に質問した。いつもの研究室。乱雑に本が散らかった部屋の床にも、空いているスペースに直に尻をつけ、本の山を机にノートを広げて師の言葉を控える態勢にも、もはやすっかり慣れてしまった。
「ガーランドの提唱した六元素説にも、上位精霊の概念はあった。彼の著書によると、地水火風の四大精霊は同格であったが、後に付記された光と闇の二精霊はその上位概念として説かれている」
「では、バドヴィアも同様の意味合いで『上位』という概念を用いたんでしょうか」
「違うだろうな。ガーランドが光と闇の二精霊を付記したのは、ハース教の教義に則った故で、そこに上位という概念を用いたのも神学の見地に拠るものだ。
一方でバドヴィアによる最上位精霊は時と場。時間と空間を司る精霊の存在を、最上位概念と説いたんだ。これは神学とは何の関わりもない。非常にわかりやすい話だろう」
「そうですね。地水火風あらゆる物質も、時間と空間という舞台がなければ存在しえません」
「しかし、地水風を下位概念とし、火と並ぶ『空』という新しい概念を中位のものとして据えた、この真意は非常にわかりづらい。だが少なくとも、ガーランドのように宗教上の上位概念を取り入れたわけではない、というのは明らかだし、『空とは何か』という疑問も当然横には置いておけないのだが、理由がないのなら地水火風空の五精霊は同格と考えてもよいと思うのだ」
淡々と、フォルスタの講義は続く。
彼の教える内容は、他の授業で習う魔法学の概要とは一線を画している。彼が研究するバドヴィア学が、それだけこれまでの基礎魔法学と異なった展開をしているから、である。
そのことを踏まえ、現時点ではあくまでこれは全て仮説に過ぎないのだ、ということをしっかりと理解していないと、普段の授業と並行してバドヴィア魔法学の講義を受けるのは難しい。他の教授が魔法学会の常識と捉えるような学説が、フォルスタによってはいとも簡単に重大な誤謬と断じられてしまう。たとえばガーランドの六元素説を是としながら他の講義を受け、否と頭を切り替えたうえでフォルスタの話を聞く必要がある。なかなかに疲れる。
それでも、その不自然な状態を保ってでも聞く価値が、フォルスタの授業にはある。魔法の論理に熟達するほど、ティリルはその事実を思い知らされていくのだった。
「そもそもこれまでの魔法学史が全部神学を基に成り立っていたのに、バドヴィアはその前提を一切無視して新たな魔法原理を説いちゃうんだからね。そりゃ誰も認めたがらないってのは当然の話だよね」
ティーカップを三つ、トレイに乗せて運びながら、ダインが授業に参加してきた。師の元には机の上に、ティリルの前には「気を付けてね」という言葉を添えて足元の床に。そして自分は、あろうことか大きめの辞典を五、六冊ほど積み上げたその上に腰を下ろし、トレイをテーブルとして自分の膝の上に置いて、入れた香茶を飲み始めた。
ダインのこういう書物への乱雑な態度はあまり好きではない。ティリルは少しだけ眉を顰め、しかし気が付けば自分も書を文机にしていたと思い改めて、質問を口にする。
「誰も認めたがらないんですか?」
「バドヴィアの学説について、その存在は特に隠されてるわけでもないのに誰も研究しようとしない。積極的に認めようとしていないってことだと思うよ」
「……まあ、一概には断言できないがな。そもそも残された文献が王宮にある落書き数枚程度では、研究したくてもできないという実情もある」
溜息交じりにフォルスタが口を挟む。この師を以てしても、バドヴィアの残した断片は、理解の及ばぬ程に難解だということなのだろうか。いずれ、自分の目でも現物を見てみたい。小さく唾を飲み込みながら、ティリルはそんなことを思った。
「それにしても、ティリルはこのところ、ずいぶん頑張ってるよね」
唐突に、ダインが笑顔を向けてきた。突然雰囲気が変わり、思わずティリルは惑ってしまう。え、ああ、いえ、その……。得意の言葉探し。謙遜と、礼とどちらが正解か。考えているうちに先に相手が次の言葉を口にしてしまう、よくあるパターン。
「根詰め過ぎかなって思うくらい熱心に勉強してるよね。やっぱり主席を狙うって宣言を意識してるのかな。」
「あ、いや、それもなくはないですけど――。えっと、私行使学の成績は相変わらずですし、できることから自分の能力を上げていかないとダメだろうって思ったんです」
正確には、自分を貶める相手を跳ね返したい、という思いもあるんです。心の中で付け足した。
「な、なんて殊勝な……。僕とは大違いだ」
「え、や、そんなこと。ダイン先輩は私なんかよりずっといろいろなこと知ってらっしゃるじゃないですか。先生のところで勉強している期間も長いし、バドヴィア学についてだって私よりずっと先輩です」
「単に長くやってるってだけでねー。偉くもなんともないんだよ。先生にもしょっちゅうさっさと専門課程に進めって言われてるのに、だらだらここでお茶飲んでるしねえ」
自嘲。なんだか自分の方がすごくないことを自慢したがっているような、不思議な調子。ちなみに専門課程とは、予科、本科を十分な成績にて修了した学生が進む狭き道。専任教員にその道を進めと言われるだけで、十分に優秀な証と言える。
「全くお前はまだるっこしいのが好きだな。さっさと本題に入ればいいだろうが」
と、フォルスタが口を挟んだ。ダインが何を言いたいのか、というかこの話の先に本題があるらしいことを、師は察知したらしい。ティリルにはわからない。こっくりと首を傾げ、ダインの照れ臭そうな笑顔を見る。
「いや、あはは。先生には敵わないな。まあ、要はティリルをちょっと誘いたいなって思ってるんだ。その、今度の闇曜にさ」
「え? 誘い……、ですか?」
眉を顰める。フレーズの印象は、あまりよくはない。というのはただ、「今度の闇曜に遊びに行こう」という文句がとある青年の軽薄さとイコールで結び付けられてしまっているから、というだけの話なのだが。
「えっと、誘いって、いったい何に――」
「その、クロスボールの試合。一緒に応援してくれないかなーと思って」
「くろす、ぼーる、ですか?」
首を傾げる。聞いたことのない単語だった。だが、ダインとフォルスタにとっては知らないということの方が驚きだったらしい。聞き返したティリルの声に目を丸くし、それからダインは少しだけ表情を曇らせた。
「そうかぁ、知らないか。ソルザランドを代表するスポーツなんだけどな。こう、ネットクラブっていう網でボールをパスしてさ。相手の守るゴールに足でシュートするの。知らない?」
「あ、スポーツの、ですか。ええ、聞いたことはありました。実際どんなものだかは全然知らないですけど」
「そっか、知らないのか」
わかりやすくがっくりと肩を落とすダイン。何か落ち込ませることを言ったのだろうか。自分がそのスポーツをよく知らないということが、なぜそんなに落胆させる要因になるのか。まるでわからず眉間の皺がどんどん深くなっていく。




