1-13-1.アルセステの加担者
それ以降、ティリルの頭の中は、二つのことに支配されるようになった。
一つ目は、学問への熱意。今まで疎かにしていたつもりはなかったが、先日のフォルスタたちとのやり取りで彼女のやる気は今までにない程まで向上した。無論、魔法行使の実力が急激に上がるわけはない。ラクナグ師がいなくなって、当然ティリルが受けていた補講もなくなったし、新たに実習の担当となった教師はラクナグほど教え方が上手くなかった。上手くないどころか、成績の悪い者を露骨に批判する悪癖もあるようで、寧ろ人を伸ばすより叩く方が上手い、という印象すらあった。暴言を吐かれていない学生の顔を見るに、恐らくこの新任教師はアルセステとのつながりがあるのだろう。
閑話休題。そう言ったわけで、ティリルの行使学の成績は遅々として上昇しなかったが、自身、そのことを気にするつもりはなかった。焦りがないと言えば嘘になるが、焦っても仕方がないということも十分承知していた。
その分、座学に努力を傾けた。あらゆる授業で貪欲に知識を溜め込み、教師への質問を繰り返し、見識と思考を自らの血肉としていった。二月も経つ頃には、ティリルは、魔法論理学でも一般教養学でも、筆を持つ講義ではトップクラスの成績をマークするようになる。あらゆる教師が口を揃えた。「ゼーランドは、論理学に転向したほうがいい」。だが、彼女の専任教師であるフォルスタだけは、意見を異にしていた。ただティリルの魔法力の遅々とした向上を、自分の研究室で様々な訓練を課しながら、辛抱強く見守り続けていた。
一方で、この二月の間、ティリルが熱意を傾けた事柄がもう一つあった。
ラクナグ師の追放、その真実を追究すること。学院長も教頭も半ばアルセステに懐柔されているような状況で、今更師を呼び戻すのは不可能に近いと理解している。実際、師自身がそれを望んでいないことも薄々は気付いていた。ただ、師の名誉を回復したい。それが一番の動機付けだった。
概要が概要である故、その後しばらくの周囲の視線は、完全にラクナグ師を犯罪者として見做していた。当然ティリルにも悪い評判は付きまとう。成績のために教師に股を開く淫売女。所構わず下着を脱ぎ捨てる色情狂――。陰口も耳にした。自分のことはいい、謂れのないいじめにはもう慣れた。だが、ラクナグ師が悪く言われるのは我慢がならない。アルセステの悪意は、結局のところ終始自分に向けられている。師はただ巻き込まれただけ。その結果がこれでは、あまりに申し訳がない。
振り返るうち、わかったこともいくつかあった。
下着がすり替えられたのは、比較的単純な推理で解明できた。街の大浴場にも行ったことのないティリルは、外で上着を脱ぐ機会がまずない。脱がされたとするならば、意識のない折。事件の数日前でそんなことがあったか振り返ってみれば。
「……………………ごめん、なさい」
長い沈黙の後、彼女は、ただそう呟いた。
事件から一週間後。闇曜日の朝、ティリルはミスティと連れ立ち、街へ出た。行く先はエレシア満腹堂。開店より前の時間。忙しい時間帯だったとは思うが、気遣うつもりは毛頭なくなっていた。
「やっぱり、あなただったんですね、タニアさん」
静かに、努めて重い声で確認した。
タニアは俯いていた。唇を噛み、拳を握り、顔を赤くして。彼女が何を考えているのか、ティリルにはわからなかった。わからない方がいい。その予感があった。
「…………ごめんなさい。あの時、アルセステ様に――、アルセステに脅されていたの。お店の取引を制限するって。……こんな小さな店、潰すのは簡単なんだって。
ほんの少し手伝うだけでいいって。ティリルの料理に入れるだけでいいからって、ただの睡眠薬だからって、薬を渡されて。……あなたが寝た後、アイントが、近くの服飾店に下着を買いに行ったわ。それで、あなたの服を取り換えたの。何が目的だったのかは聞かされてないし、今もわからない。ただ、アルセステ達はそれだけして帰っていった。後はよろしくねって、それだけ言って……」
声を震わせながら、言葉をどうにか紡いでいくタニア。ティリルはそれを、ぐつぐつと煮立った心持ちで聞いていた。タニアへ向けたものなのか、それが見極められるほど冷静にはなれない。ただ静かな怒りを無表情の下に隠して、続く話も黙って聞き続ける。
「私は、あなたのことが心配で……。副作用のない薬だって言われても信じられるかどうかわからなかったし、途端に怖くなって。ティリルが目を覚まして、本当に安心した。でも、やっぱり申し訳なくて、あれから今日まで、すごく悩んで……。
先週、ティリルが来てくれたら謝ろうと思ってたんだけど、先週に限ってティリルが来なかったから、何かあったんじゃないかってすごく心配だったし、私のしたことがもうばれてて私の顔なんかも見たくなくなったのかもって不安にもなった。あの、こんなこと言ってももう迷惑なだけかもだけど、ティリルが無事で本当に良かった。私に謝る機会をくれたことも、嬉しい……」
旋毛が見えるほど、深い礼をくれる。
他のことであったなら、ティリルは、仮にも友人からこんなにも真摯な謝罪をもらえば、一も二もなく赦していただろう。そんなこともう気にしないでください、むしろ私の方こそごめんなさい。そう言って微笑んでいただろう。
誰かを赦せない、と思う程の怒りを、ティリルは初めて抱いた。自分でも驚くほど、強く暗い感情だ。
タニアへ怒りを向けても仕方のないことだとわかっている。その上で、ティリルは一言だけ、小さく小さく言葉を絞り出した。
「…………もう、来ません」
「――……え……?」
呆然とするタニアを残し、ティリルはすっと踵を返した。
え、ちょっと待って。ねえティリルっ? ――縋るタニアの声を置き去りにする。わかっている。彼女が悪いわけではないことを。けれど、彼女のせいにして、ラクナグがいなくなったことをまるで彼女がすべて悪いように言って罵倒してしまいかねない。
せめて、何も言わず、このまま帰ろう。そして、二度とここには来ないようにしよう。それがティリルの決断だった。
去り際、振り返らなかったが、一緒に来ていたミスティがタニアに向かって言葉をかけていたのに気付いた。内容こそ聞こえなかったが、何やらのフォローをしてくれているのだろう。小走りにティリルを追いかけてきた彼女に、何を話していたのか、問うことはしなかった。
ミスティも語らなかった。ただ、別のことを口にした。
「……えっと、ティリル。私も謝らなきゃいけないことがあるんだ。その、ごめん」
「え、えっ?」
その言葉が謝罪であったことに、ティリルは酷く驚愕した。振り返り、往来の真ん中に立ち尽くし、ただ困惑の声を漏らす。




