0-3-2.魔法大学院へのいざない
「本当にすみません。夜分に押しかけて、お手を煩わせてしまって」
ダイニングのテーブル。ローザとティリルの向かいに座って、使いの彼は改めて畏まった。お茶のカップが三つ、テーブルの上で湯気を立てている。
ティリルはようやく気持の整理がつくか、つかないかという情況。少なくとも、男性の言葉の続きを落ち着いて待とうという心構えは固まった程だ。尤も、隣席のローザが姿を消してしまったらまたパニックに陥ってしまうに違いないくらい脆い覚悟ではあろうが。
「お話を伺っても、よろしいでしょうか」
ローザが香茶を一口啜りながら訊ねた。使いの男性の話が始まる合図だった。
「先ほども申し上げましたが、改めまして。私は国王陛下のお言葉をティリル・ゼーランド様にお伝えするために、サリアから参りました。セオド・クリランシと申します」
「はぁ、国王陛下の……」
ローザは軽く反芻した。反応こそ薄いが、これでもローザにしては随分驚いている方。横に座って暖かいティーカップを手の平で抱えるティリルには、それがわかった。
「その、お言葉というのはどのようなものなのでしょうか」
続けて、聞く。
「ええ。実は陛下は、是非ティリル様にサリアの魔法大学院に入学して頂きたい、入学の援助をなさりたいと仰っているのです」
「私を……、魔法大学院に……?」
今度はティリルが鸚鵡返しにする。行ったことのないサリアでも、魔法使の大学校があるということは聞いている。魔法の才を持った人々を一所に集め、それを行使する力を研究させ、身に付けさせて優秀な魔法使を世に輩出していく、ソルザランド王国最高学府。そして、ティリルにとっては自分が関わることになろうとは夢にも思っていなかった場所の一つ、でもある。
「はい。ティリル様に魔法大学院の魔法行使学部に入学して頂き、魔法使として大成して頂きたい、とこのように仰っていまして。あ、もちろん本科生としてですよ」
男の話はティリルの知らない言葉が多く、半分ほどしか理解することが出来なかったが、ただ一つはっきりとわかったことは。
「つまり、その、私に魔法使になれと言ってくださっているんですか?」
「はい、そういうことです。失礼ながらティリルさんは、これまでいずれの学校や教育機関にも属していらっしゃらなかったはず。ちゃんとした教育を受け、いずれ国を支える大魔法使のお一人となってご活躍頂きたいと、陛下はそう望んでおられるのです」
「でも、あの……」
「もちろん申し上げましたとおり、就学及び学校生活に必要な支援は王宮が行います。また入学に必要な手続きも全て王宮の方で行わせて頂きます」
ティリルが発しようとした疑問の言葉を遮り、男は先走って説明を付け加えた。しかし、ティリルの不安はそれではない。
「いえ、その、そういうことではなくて……。えっと、どうして王様が私なんかにお声をかけてくださるんですか?」
「え、それは――」
「私、魔法使どころか、ごくごく簡単な魔法しか使えない普通の人間なんです。それにこのユリの町から外に出たこともありません。だから、王様がどうして私にそんなお話を下さるのかがわかりません。そもそも王様がどうして私のことなんかを知って下さっているのかさえ、全然わからないんです」
困惑と懐疑に表情を歪めながら、ティリルは上目遣いに男を見つめた。
暫時の沈黙。きょとんとしたクリランシの目許は、しかしすぐさま優しげな微笑に変わり、ティリルの疑問に受け答えようとする。
「もちろん、ティリル様のお母上のためです。確かにティリル様はまだ魔法の訓練をまるで受けておられない、こう言ってよろしいのであれば、名の知れない一女性に過ぎないかもしれません。ですが、ご存知のようにティリル様のお母上は偉大な魔法使でいらっしゃいました。魔法使の素質は、血によって受け継がれるところが大きい。国王陛下は貴女がお母上から受け継がれた『血』にご期待なさっているのです」
きょとんと、今度はティリルが目を丸くした。答えを求めるようにゆっくりとローザの顔を見ると、しかしローザもまた頬許に手を添えて不思議そうな顔をしている。二人とも彼の話が理解できていないのだが、一方のクリランシはそんなティリルたちの様子に気付こうともせず、更に話を続けようとする。どうもこの使者殿は、会話の際、相手の理解程度に気を配るのが苦手らしい。もう少しこちらの様子も察してほしいな、とティリルは気付かれない程度に小さく溜息をついた。
「恥ずかしながら、実はティリル様のお母上の行方に関しましては王宮でもまるで掴めていませんでした。先の大戦の後しばらくは、王宮は戦後処理に尽力しなければなりませんでしたし……。
数年を置いて、各都市の治安が落ち着いて、ようやく再び国の文化水準の向上に力を注ぐことが出来るようになり、そのために力を貸して頂く目的でお母上の捜索も始められました。ですがなかなかその行方について手がかりを見つけられず、つい先日にようやく、お母上がご結婚なされていたこととご息女を生んでおられたこと、そしてそのご息女がこのユレアの山腹にお住まいになられていることを突き止めることが出来たのです」
机の上に両手を組んで置いて、クリランシは話を区切った。
どこか誇らしげな顔。今の話のどの辺りが誇らしい部分だったのかティリルには判断できなかったが、しかしそんなことはどうでもよかった。
それよりももっと気にかかること、彼に問い詰めなければいけないことがある。ティリルは居ずまいを正し、半身を前にのめらせて彼を睨みつけた。
「あの、私のお母さんのこと、ご存知なんですか?」
クリランシは不思議そうな顔をして、「ええ、もちろん」応える。
「良かったら教えて頂けませんか? 私、お母さんのことは何も聞いていないんです」
返ってくるのは、今まで出一番間の抜けた、ぽかんと口を開けた男の顔。
「……えっと、……その……。ティリルさんはご存知ではないのですか? お母上のこと」
「私、物心ついたときにはお父さ……、父と二人暮らしでした。父は殆ど何も教えてくれませんでしたし、私自身もあまり気にしたことがなかったもので、問いかけたこともなかったんです。……その、もう亡くなったとは聞いているんですが」
話をして、ちらりとローザの顔を見る。返ってくる目線、『私も知らない』と答えている。確かめて、再び男の顔を見詰め直す。
ティリルを凝視する男の表情は、一言で言えば驚愕。
「まさか、ご存知ないとは思いませんでした。お母上のことですし、お父上からお聞きになっておられるものと――」
呟くように答えて、手許のお茶に手を伸ばす。白い、装飾のない小さなティーカップ。湯気はもう、消えていた。