1-12-8.師、フォルスタの前に誓う
「師のことは、非常に残念だったな」
珍しく、フォルスタが先に口を開いた。
ティリルの心境を慮っての発言だった。あまりに珍しいそのことに、ティリルは思わず目頭が熱くなった。
「尤も、彼自身は特に気にしている風でもなかったがな」
「……お会いになったんですか?」
「ああ。私も、彼とは彼がこの学院に来てからの付き合いがあってな。『こんな腐敗の只中に、後から来て先に出ていくことをお許しください』なんてふざけた挨拶を寄越しおった」
フォルスタが、少しだけ頬許を柔らかく緩めて、嬉しそうに語った。そもそもこの学問の狂信者が、手許の書物から顔を上げて話をすること自体、珍しいことだった。
「僕も新入の時にはお世話になったよ。でも授業は受けられなかったし、最後くらい挨拶したかったなぁ」
床に胡坐をかき、その上に厚みのある書物を開きながら、ダインも追従した。こちらもまた珍しいことに、自分の研究を進めているのか何冊か横に本を積み上げているが、進捗は遅々としているようだ。先程から、ページを捲られる音が全く響かない。
「私も、一年間ちゃんとお世話になりたかったです……。ただでさえ途中編入なので人より短かったのに」
「そうだな。彼の基礎実習をしっかりと終えてから、バドヴィア論の追究に進もうと思っていたのだが……。
こうなったら、お前のペースを少し早めることにするか」
「…………え?」
予期せぬ師の言葉。落ち込んでいたティリルは不意を突かれた思いで、一瞬遅れて顔を上げた。
「何だ、その顔は? 何か不服か?」
「……え、いえ……。その、ごめんなさい、ちょっと意味がわからなくて」
「意味も何も、そろそろ私からお前に魔法実技を教授しようか、と言っているんだ。本当なら一年間みっちりラクナグ師の許で基礎実習をこなし、その上で今度は私が――、と思っていたんだがな。新しい基礎実習の講師は下らん職業魔法使崩れらしいし、お前の習熟度も思ったよりもずっと早いようだしな」
本当に珍しい、ティリルは思った。フォルスタ師が、自分の目を見ながら話をしてくれるなんて。そして、見縊ってもいた。師がちゃんと、自分のことを考えて計画を立ててくれていたなんて。
普段無口で不愛想で、ようやく空気を柔らかくすることができてきた最近ですら、何かを教えるということは殆どしてこなかったフォルスタ。だが確かに、彼がティリルに高度なことを教えるつもりなら、先にラクナグのような優れた基礎実習講師の元に付くのは得策だろう。何せティリルは、魔法行使の基礎を何も持っていないのだ。
ぽかんと口を開け、嬉しいくせにそれを表情の片隅にすら表せないまま、暫し呆けてしまうティリル。そして感情を表すより先に、
「私の習熟度が早いなんて、わかるものなんですか」
などと、取りようによってはずいぶん生意気な口を利いてしまうのだった。
「あ、違うんですそのっ、だってフォルスタ先生、私の実習の様子を見に来て下さったことは一度もなかったし、この研究室でも私殆ど魔法を使っていませんし、だからって意味で……」
「そんなもの、お前の日々の様子はお前自身が伝えているだろうが」
「あ、はい。でも、その――」
「それに、ラクナグからも書状を受け取っている」
「え」
口が、止まった。何かを紡がなければ、と焦るごと言い訳にしか聞こえない言葉を重ねた口が。
目が、丸くなる。
「なんだその顔は。形の上で、私はラクナグの見ていた学生を引き継ぐんだぞ? 報告ぐらいあって当然だろう。
ああ、そうだ。お前への書も預かっていたんだった」
「え、私へですかっ?」
初めて、素直に笑みが零れた。
フォルスタが机から、茶色い封筒の一つを取り出す。ワクワクしながら、先に手を出して受け取るのを待ってしまう。
「ほんとに、ティリルちゃんはラクナグ先生のことが好きなんだなあ」後ろでダインが呟いていたが、答える余裕もなかった。破るように封蝋を開け、中から白い便箋を、ひったくるように乱暴に取り出す。
背筋の伸びるような達筆で、そこには、簡潔な言葉が書かれていた。
『課題。
次に会うときまでに、行使学に於いて魔法大学院首席の成績を修めていること』
「え、……なに、これ」
「ははぁ。ラクナグ先生からの宿題だね」
すぐ背後から声をかけられ、驚いて仰け反ると、いつの間にかダインが移動してきていた。ティリルの手許の手紙を覗き込んでいる。一瞬驚いたが、気にはならなかった。それよりも、師の直筆に心を奪われていた。
「……宿題?」
「次に会うまでにこの学校のトップになっておけって、そういうことでしょ」
「ひ、ひおえっ?」
珍妙な悲鳴が出た。ダインが平然と口にする、その事柄のなんと大それたこと。身の程知らずもいいところだと、ティリルはダインに向き直り、ぶんぶんと首を横に振る。
「む……、無理無理無理無理っ! 私絶対無理ですってっ!」
「僕に言われてもさ。ラクナグ先生の宿題なんだし」
「ふえぇぇ、そんなの、絶対なれるわけないです……。私なんて、まだ人並み程度の成績も取れていないのに」
「だが、お前が目指す位置はそこ以外にはないぞ」
今度はフォルスタが口を開いた。
ダインにラクナグを重ね、駄々を捏ねるようにしてその手紙に反論していたティリルが、ゆっくりとフォルスタの顔を見る。あ、これ、よくないことを言われる流れだ。さすがに自分の師とのやり取りも見えるようになってきた。
「私に教えを乞うた以上、生半の結果で満足されてもらっては困るからな。学院トップなど前提条件。少なくともサリア一、いやソルザランド一と呼ばれるようになってもらわねばな」
「い、……………………いえいえいえ」
ぶるぶると首を横に振り、言われた事実そのものを否定しようとする。
冗談めかしてにやりと笑う、そんなフォルスタの表情を、ティリルはまるで見た記憶がない。だというのにわかってしまうのは、このところフォルスタとの距離も大分縮められてきた、ということか。冗談めかしたフォルスタの笑顔は、そのとんでもない内容が心底本気だという証左。本気だからこそ、愉快そうに眼を細めるのだ。
「第一、目標が低ければそれ以下にしか到達はできん。学院中位で卒業して何が面白いんだ」
「そ、それは……」
真顔でさらに問われ、いよいよティリルも言葉を失う。自分の目標。そういえば、考えたことがなかった。「どうせ目指すならでかいものを目指せ。志のない者にかかずらっている暇は、私にもないからな」。今度は真顔で、放言するフォルスタ。確かに、それはそうだ。凡百の魔法使になったところで、王国への奨学金もきっと返せるものではないだろう。
しかし、それにしてもティリルは、自分がどうなっていたいかを考えたことがあまりに少なく、大魔法使を目指せと言われるその言葉が、全くもって落ち着かなかった。
「それとも、やめるか」
だと言うのに、フォルスタはさらに追い詰めるように、ティリルに決意の言葉を求めてくる。ダインもにやにやと、決して師を止めようとしない。見守っている、というよりは、見て楽しんでいると言った方が正確なようだ。
「…………」
「ラクナグが去って、お前もやる気を失したか。ついでに私の研究室からも出ていくか」
「…………い、いえ」
否定の声が、零れて出る。だが決意に届かない。震える心境は逡巡の方が大きい。その、背を最後に押したのは、ダインの耳打ち。
「!」
背後から、一言そっとティリルの耳に言葉を入れる。途端にティリルは、自分の裡から黒い情念が燃え上がってくるのを感じた。こんなにどす黒い思いが自分の中にあったのかと、驚きを禁じ得ないほど。だが、それを封じようとは思わなかった。むしろ存分に開放してやりたい。
耳打ちに聞いた、はらわたの煮え繰り返る女の名の響きを噛み締めながら、「……なりたいです」師の質問に、小さく、まだまだ弱弱しく、しかし答えた。
illustrations by めーる様
じっとりと、フォルスタがつまらなそうな顔をする。頬杖をついて目を細め、ふん、と鼻を鳴らし、「つまらないことを言うな」とダインに釘を刺した。
「やる気になるのは良いことだ。だが、些細な怨恨を自己向上の理由にするなよ」
はい、と静かに答える。
師の視線に、足が震える。頭の天辺が冷たくなる。だが、胸の奥は決して凍らない。むしろ幽かに、しかし力強く、小さな火が燃え続けているのを感じる。この想いも怖いけれど。それを目指すことへの恐れ多さもあるけれど。それでも覆せない、誤魔化せない悔しさが、そこに確かにあった。
傍で、ダインがにやにやと、やはり面白がっている顔でティリルのことを見ている。真意はわからない。あるいは、ダインにもアルセステへの思いがあるのだろうか。
何がさて、ティリルは師の前で、自分が目指すものを口にして約した。自分の中の黒い情念のことも、この時初めて自覚した。
この時以後、ティリルの就学姿勢は、そして日常の過ごし方は、大きく変わっていくのだった。
めーるさまにティリルのイラストを頂きました。
自分のイメージで、勝手にこのシーンの挿絵に使わせて頂いちゃいました。
めーるさま、ありがとうございます!!




