1-12-7.ミスティの問う、学院の意義
「ゼーランド。もう一度だけ言おう」ラクナグが、もう一度ティリルに視線を戻し、真面目な顔で口を開いた。「フォルスタ師は、今現在のこの学院で最高の師だ。彼に、ほぼ一対一で指導してもらえるお前は恵まれている。同室のルーティアも、信頼に足る人間だ。私などいなくても、お前は優れた人脈を持っている。だから言うのだ、ここで魔法を究めろ」
「…………」
厳しくも優しいラクナグの師としての言葉は、これが最後の言葉なのだと、ティリルも悟った。また目頭が熱くなる。この、刺々しくも滑らかな、虎の牙のようなラクナグの声を、もう聞くことができなくなるのか。
「先生……」
「情けない顔だ。初めて会った時のようだな」
はい、すみません。笑いながら、答えた。
「感動のシーンを妨げるのは無粋の極みだが、そろそろ、よいかね?」
学院長が口を開いた。ああ、もういい。答えたのはラクナグだった。どうしてラクナグも、ミスティも、勝手に決めてしまうのだろう。ちっとももうよくなどない。もっとずっと、いつまでも話していたい。
ああ、今頃本当は、ミスティの服を買って、それからエレシア満腹堂で昼食をとって。幸せな一日になるはずだったのだ。なぜ、信頼の厚い師との別れを味合わなければいけないのか。
「先生が納得ずくなら、このことについて私たちも何も言うことはありません。ただ、この出鱈目な流言が親友の評判を落とさないよう努めるばかり。私は、自分の研究時間を削ることになっても、彼女のことを守ります」
「…………」
「へえ、カッコいいんだ」
ミスティは、学院長に答えたつもりだったろう。当の学院長は何も答えず、もう一度頬杖をつき直してミスティの顔を睨む。代わりに、くすりと嘲笑したのは、ここまで口を閉じてきたアルセステだった。
「とんでもない。格好なんか気にしませんよ。そういえば初めましてですね、アルセステさん」
きっちりと反応し、ミスティが、アルセステを睨む。
その眼力にも怯まず、どころか微風のように軽く受け流し、ええ初めまして、と挨拶を返すアルセステ。
「親友を守るためには格好なんか気にしません。泥に塗れたって、敵を排除できるのなら私はその労を厭いません。
学院長先生。私は、この学院の存在意義の第一を、何物にも邪魔されず最高の環境で魔法の研究が行えることであると認識しています。私自身、それを第一に行動し、研究の足しにならないことには時間を割かないようにしてきました。ですが、私にも自らの研究よりも大切なものが、数える程ですがあります。それを守るためならば、私は今までの成果の全てを擲つ覚悟があります。
学院長先生、教頭先生。この学院には、学生の研究を守るために学院の全てを擲つ覚悟が、いまだ残っていると信じてよいですか?」
アルセステの言葉は、途中から視線を変えた。
学院長は、深く静かに頷いた。「君の言葉は正しい」。たった一言、そう言って返す。学院長がそう認めることが、とても大きなことだとティリルにもわかった。
教頭も、その大きさはわかっているのだろう。何をこんな小娘の言葉を真に受けているんですか。そんな雑言を、学院長に向けている。だが教頭はわかっていない。ミスティの問いを、学院長が認めないことの問題を。
アルセステは気付いている。ルートとアイントはどうだか知らないが。気付いているから、不愉快そうににんまりと笑い、上唇を舌でぺろりと舐めたに違いない。
ティリル自身、ミスティの言葉の意図、その全てに気付けたかは自信がなかった。ただ、アルセステの心中だけは、なぜかわかったような気がした。彼女は、ミスティをも『敵』と認めた。今後は、ミスティもまたアルセステに狙われることになるだろう。自分のために、ミスティがわざとアルセステを挑発している。それくらいはわかる。ありがたい分だけ、辛くもあった。
「最後にもう一つ、確認しておきたいのですが、よろしいですか?」
ミスティは、続けて学院長を睨んだ。構わんよ、と右手が振られる。
「ラクナグ先生の淫行の相手としてティリルが疑われていたのなら、ティリルも当事者のはずです。なぜ今回の沙汰は、その当事者の事情聴取なしに決定されたのですか」
あ、と口に出しそうになる。
そうだ。何より先に、そのことに疑念を抱くべきだったのだ。ティリルは、学院長とアルセステの顔を、交互に見た。そもそもが、ティリルのいない場所で決められ、ティリルのいない場所で全て終わらせるべく書かれた筋書きだったのだ。今朝、あの掲示板を見逃していたら、こうしてここに来て、先生や彼らと話をすることさえなく全てが終わっていたのだ。
「必要がないと判断したからよ。ラクナグに懸想し、言いなりになるような女子学生の意見など、参考にできるわけないでしょう」
教頭が、乱暴に言い捨てた。大きくかぶりを振り、まるで物分かりの悪い子供に同じことを繰り返し教えなければならない親のように。
満足そうに頷く、アルセステにアイント。くひひと口許を押さえて笑うルート。
彼らのみではない。学院長すら教頭の言葉に頷き、黙ってティリルたちを見つめている。もう、本当に、これ以上の言葉はなかった。
「わかりました。お時間を頂きありがとうございました」
酷薄な対応に、ミスティは抗議の一つもない。ティリルに疑念の声を上げる余地も与えず、これ以上もうここに用はない、と踵を返した。ティリルの手を引き、部屋を出ようとする。
いや。ティリルは一瞬、足に力を入れた。このまま終わるなんて、情けなさすぎる。自分にも、言いたいことがあったはずではないか。
「あのっ」誰にともなく、口を開く。「私もっ、その、ミスティに守られっぱなしのつもりはありませんから! 自分の身くらい自分で守ります! こんなこと、もう、二度と許さない!」
誰にともなく、口を開いた。
聞いていたその人物には届いただろうか。少し驚いたように目を見開き、鼻を鳴らして、頬の端を上げる。
確認して、ティリルも身を翻した。「ごめん、行こう」ミスティに言い、扉に手をかける。ミスティもすぐに頷き、二人、赤い絨毯と樫の扉に守られた砦を後にした。




