1-11-5.夢中で読んだ本の題名
「それで? 今日は何かあった?」
「あ、いえその、この前会えなかったから、謝ろうと思って……」
「へ? 謝るって?」
「ほら、その、一昨日の神学史のとき。私寝坊しちゃって、まるごと授業さぼっちゃって、それでヴァニラさんにも会えなかったから」
「え、ウソ何。一昨日の欠席って寝坊が理由だったの?」
初めてヴァニラがキャンバスから目を外し、ティリルの方を見た。
信じられない、と口に出しながら笑う彼女の表情は、まるで粗相をして叱られてもいないのにしょげ返っている飼い犬でも見るかのよう。笑われても仕方がないティリルは、黙ってその笑い声を受け止めた。
「あっはは、それで何、先生にも叱られて、ついでに私のところにも謝りに来たってわけ? 全く真面目っ子ねぇ。私に対しては何にも謝ることないでしょうに」
「で、でも、ヴァニラさん待っててくれたかなって思って。いつも一緒にお昼を食べてたのに、突然何にも言わずに休んじゃったから申し訳なくて。その、ご心配かけてごめんなさいでした」
「いやいや、全然心配とかしてなかったし」
けらけらと笑いながらヴァニラ。それはそれで、少し寂しい。だあってティリル、前の日も元気にしてたし。何か急に用事が入ったんだろなって勝手に思ってたから。まさか寝坊とはねー。依然笑いを噛み殺しながら、絵筆を片手に歯を見せてくる。
「何、夜遅くまで勉強でもしてたの?」
「それが……」
ティリルもいつもの椅子に座り、買ってきたサンドイッチを広げながら口を尖らせる。雑布で包まれたパンは、具の野菜から染み出た水分で少ししんなりし始めていた。
食べます?とヴァニラの手許にももう一包み、置いてみる。あ、ありがとう。ヴァニラは遠慮せず、左手をそれに伸ばした。
「読書してて気が付いたら空が明るかった? ホント真面目だねえ」
「でも面白い本なんですよ。つい夢中になっちゃって」
「魔法学の本? 私でも聞いたらわかるかな?」
「あ、はい。えっと、……なんだったけな。タイトルが――、ごめんなさいド忘れしちゃった」
「作者とか、内容は? 精霊物質説についてーとか。破損説とか」
「ええと、作者も覚えてないんですが、内容は……。あれ?」
問われて、答えを頭の中から探し始めて、奇妙なことに気が付いた。本の内容を、まるで覚えていない。あんなに夢中になって読んだのに、どんなことを検討し、どんなことをまとめていた本だったのか、一片も思い出せない。読書を趣味にしてきたティリルにしては、今まで経験のないことだった。
「なに、内容も覚えてないの? それホントに読んでたの?」
「ほんと、そうですよね。なんで覚えてないんだろう。……ううん、でも、確かに読んだ後は何か感想があったはず。覚えてないっていうか、忘れちゃった、のかな……」
「え、それもそれでどうなのよ。頭でも打ったの? 診てもらった方がいいんじゃない?」
ヴァニラの声音が、からかう雰囲気から本気で心配するトーンに変わってきた。
いやいやそんなに心配されることじゃない。ティリルは慌てて笑顔を作り、大丈夫、大丈夫と繰り返した。
「きっと、読んでいるつもりで、頭の中でいろいろ考えることに夢中になってたんだと思います。ダメだなあ、もっとちゃんと内容を頭に入れないと」
えへへ、と舌を出して誤魔化す。その仕草とセリフに、ヴァニラはどこまで騙されてくれたのか。怪訝な表情は結局崩さずに、それでもそれ以上何も言うことはできない、とばかりに首を傾げながらキャンバスに向き直る。
「そもそも朝起きられなくなるくらい夜更かししちゃうのが一番よくないと思うな。読書の仕方云々じゃなくて、いつ読書するかっていう生活サイクルの問題だと思うけど」
「そうですね、全くです。反省しまぁす」
努めて軽く答えた。
パンを食べ終わってから、改めてヴァニラの絵を覗き込んだ。相変わらず、何がどう変わっているのかティリルには全くわからなかったが、相変わらず幻想的で魅力的な作品だった。
まだまだ、全然納得がいかないんだ、と言って筆を動かし続けるヴァニラ。いつもの風景に、安心させられる。
やがて、昼休みの終わる鐘の音が、響き渡った。
やはり、不安だった。
本を読んで、それこそ朝陽が昇るのにも気付かないほど夢中になって読んで、その内容が頭に入っていないなどということがあるはずがない。欠片も覚えていない、なんて普通の人でさえありうるのか訝しいところだし、それでなくともティリルは部屋一面を埋め尽くしていた父の蔵書を読み尽くしている読書家だ。下手をすれば、何箇所かは一語一句暗記していてもおかしくない程だ。
タイトルすら忘れるなど、ありえない。
ヴァニラを誤魔化す上で自分の気持ちも誤魔化したが、それでも言いようのない不安は、胸中を騙しきれるものではなかった。
フォルスタに言われた、読書は控えろとの言葉。それを何かの裏付けにするつもりはない。実際フォルスタが、何かを明示したわけでもない。だが気掛かりではあった。アルセステが何かを企んだとは考えたくないが、ティリルの睡眠時間をどうにかする働きがこの本にあるのなら……。
くだらない心配だなあと思いながら、何かあるといけない、ただそれだけを結局的な理由にして、本を読む時間を限定した。闇曜の前日の夜。要は、休みの前の日――。
いつ頃返せるか、それだけ確認しようと、パラパラとページを捲り愕然とする。挟まっていた栞はまだほんの十数ページの箇所を示している。とても、読書慣れした自分が夢中になって夜更けまで読んだ本の進み具合ではない。栞を挟み間違えていたかと思ったが、栞の先の文章を読んだ記憶が全くない。さりとて、栞の前の部分に記憶があるわけでもなかったが。
気味が悪い。やはり……、と言うのは誠に失礼極まるのだが、しかしアルセステに借りた本だ。何かしらあるのかもしれない。
悩んだ挙句の結局。それ以上読むのをやめようと、ティリルは本を机の引き出しにしまった。次にアルセステに会うときに、さっさと返してしまおう。感想などを問われたら、あまりに面白くて夜更かしが続いて困った、と笑い話をしてごまかそう。
身の回りに、そんな不思議なことが続け様に起こった頃合い。ティリルの環境が激動したのは、まさにそんな折だった。




