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遙かなるシアラ・バドヴィアの軌跡  作者: 乾 隆文
第一章 第十一節 寝坊と、借りた本
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1-11-4.奇妙な失せ物







 フォルスタ師の研究室へ移動する。


 わざと大きな声で、今日の午前のことを謝罪する。寝坊して、神学史の授業を受け損ないましたすみません。自分の心を冷やすために出した声だったが、研究室には困惑をもたらしたらしい。ダインが目を白黒させながら、書き物の手を中途にして、傍からこちらを見遣ってきた。


 意外だったのはフォルスタだ。ティリルの声に、書き物の手を止め徐に視線を上げ。そうか、と一言口にした。その後、もう一度口を開いて何かを言いかけて、止まった。眉間に皺を寄せて左目を細めて、それから「就寝前の読書は控えておけ」とだけ付け足した。


 叱られないとしたら、「お前自身が損をした、ということは理解しているんだろうな」くらい釘を刺されるかと思っていたのだが、それ程に師のことまでも困惑させたのだろうか。


 何にせよ、ティリルの心中の蟠りは、結局のところ行き場を失い腹の底でぐつぐつと煮え立つばかりなのであった。寝坊を反省するあの気持ちは、どうして影を潜めてしまったのか、セリング師にはあれほど素直に、真摯に頭を下げることができたというのに。


 結局、すぐにフォルスタ師の研究室を離れた。ラクナグ師の補講がある風曜日は元々復習を長引かせることが少ないが、今日は一層。ティリル自身、集中できていないことがよくわかっていたので、時間をとっても意味がないとわかっているのだ。


 部屋に帰る。


 その日の夜は、借りた本には手を付けずに、すぐに布団に潜り込んだ。


 フォルスタに言われるまでもない。二日続けて寝坊するわけにはいかない。明日は午前中の授業はない、としてもだ。


 しかし、布団を頭からかぶっても、なかなか眠りにつくことはできなかった。




 変なものを失くしたな、と思う。


 地曜日の午前中。部屋で洗濯や掃除をしていた折にそのことに気付き、半ば呆然と、その事実を咀嚼した。


 正確には、失くしたわけではない。自分のものと違うものが、今手許にあるのだ。どこかで、誰かのものと入れ違ってしまったのかもしれない。


 ……と思えば、羽ペンやノート程度のものなら納得がいく。そしておよその見当も付けられるだろう。あのとき、隣の席の人と距離が近かった。あのとき、少し油断してヴァニラと話をしてしまっていた。そんな隙に、他の人のものと入れ違ってしまったのだろう。そう考えることもできる。――だが、これについては……。


 それを目の前にして、身動ぎの仕方を忘れていること暫し。ミスティが、何やら用があったのか、カーテンを覗いてこちらを見て、どうしたの?と首を傾げてきた。


 いえそれが……。事情を話すと、ミスティも表情をひん曲がらせた。波紋の如く眉間に皺を重ね、右手の人差し指を額に当てて、「それ、ホントに入れ違ったの?」聞いてきた。


「いえ、わからなくて。ただ、確かに自分のものが一つなくなっていて、代わりに自分のじゃないものが手許にある、んだけど……」


「どこかで、入れ違う可能性があるようなシチュエーションがあったの?」


「ないと思う。全然思い当たんないよ」


 溜息を落としながら、嘆くように呟いた。いや実際、見つからないと何かに困る、というわけではない。失くしてしまっても痛痒を感じるような代物ではないのだが、ただ、気味がよくない。誰かが拾ってしまったか、気付かずに身に付けてしまったかと思うと落ち着かない気分にもなるし、自分の手許にあるそれを持ち主に返せないことも気にかかる。


「どうしよう……。持ち主の人、困ってないかな」


 困惑、というよりは狼狽えた心持ち。口許を右手で覆いながら、泣きそうな気分でミスティの顔を見る。見上げた親友の顔は、どちらかといえば呆れ顔だ。


「今のあなたと同じこと思ってるんじゃない? まぁ、ティリルが困ってるんじゃなきゃそんなに気にすることないと思うけど」


「う、うん……。だと、いいけど」


「尤も」


 口を開いて、開きながらぐっと拳を握り締めるミスティ。


「相手が変態男でそいつが狙ってやったことだったりしたら、明日の朝日は拝ませてやんないけどね」


 ひゅっと拳を振り抜いて、にんまりと笑う。いやいやそんなこと。笑い飛ばしながらその一方心の奥底で、もしそうだったらどうしよう、という不安も鎌首を擡げる。誰が自分などに興味を持つかとも思うのだが、不安は不安。そしてもしも万一自分をそういう目で見てくる輩がいるとすると……。


 なんだか急に不安に襲われ、胸の辺りを拳で抑えつけながら、ティリルはベッドに広げたそれを見た。グレーの、飾り気のない麻の胸当て肌着。自分が元々持っていたものにそっくりな、一番安くてどこにでも置いてありそうな下着。本当に、なぜ、どんなシチュエーションでこんなものを失くすのか、自分で自分が信じられなくなった。



 

 そんなことがあった地曜日の昼。ティリルは昼食を、売店で少し多めに購入した。


 先に食堂を見て回る。念のため、だ。食堂で食べる気があれば、外で買ってきたりはしない。別段、どうしてもこのサンドイッチが食べたかったわけではないのだ。


 予想の通り、ここにはいない。ざっと見回してよしと一息。踵を返して向かった先は、校舎の裏の美術室棟。きっと今日も制作に力を入れている。そう考えたのだ。


「失礼します。えっと、ヴァニラさん――」


 扉を開けて声をかけると、中から返事が来た。


「もしかしてティリル? 今手が離せないから、勝手に入ってきてくれる?」


 かけられた言葉に素直に従う。


 美術室には、いつものようにヴァニラが一人で座っていた。キャンバスに向かい、ちらりとも背後を向かず、不乱に作品とにらめっこしている。


 いつ見ても、ここにヴァニラ以外の人間はいない。作品は他にもあるのに、一体他の人たちはいつ来ているのだろう。


「ここの美術室は、元々美術部の人たちのものだよ。部活動の人たちは授業の後に来るから、ティリルとは時間が合わないだけよ」


 なるほど、とティリルは頷いた。


 美術部員でもヴァニラほど真剣に絵と向き合っている人はなかなかいないというわけだ。


「いやいや、他の人は魔法学をこなしつつの美術活動だからね。魔法大学院に入学しておきながら、絵にばっかり注力してる私が一番の不真面目者なのよ」


 おどけながら答える。


 絵に集中していても、ヴァニラはいちいち会話を返してくれる。それが、すごいと思う。




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