0-3-1.嵐の夜の来客
森が、木々が緑に色づいた。空が、風が暖かく香り始めた。
ウェルが旅に出てから四週間、ようやく、ローザと二人だけの生活にも慣れ始めた。
その変化は思った以上に大きかった。ウェルはああ見えて、町への遣いや薪割り、裏庭の畑仕事と体力を使う労働を日課としてこなしていた。とてもローザにさせられる仕事ではなく、その分ティリルにかかる負担が大きくなる。庭掃除や洗濯、これまで自分が任されていた仕事も放り出すわけにはいかない。
その上、ティリルにはもう一つ家があった。父が旅に出、自分がローザの家に世話になることになって、住む者のなくなってしまったゼーランドの家。ローザの家から丘を一つ越えたところにあるその家の埃払いにも、週に一度は向かわなければならない。筋肉痛とまで情けないことは言わないが、最初の一週間は夕食が済むと本も開くことができずにベッドに倒れ込んでしまうほどだった。
ようやく最近は、体が悲鳴を上げなくなった。ローザと二人の生活も何とかやっていけそう。そう思うようになった。ウェルのことはできるだけ、思い出さないよう心がけていた。
三月の二十二日は、嵐だった。
冷え込んだが、薪が燻るので炉に火はくべず、ティリルもローザもショールを羽織ってソファに座っていた。
いつものように本を開いてはみるものの、がたがた、ぎしぎしと風に軋む家のあちこちに、なかなか心休まらず文字を目で追えない。風が鳴く度にティリルはびくりと肩を震わせ、本から目を上げて不安に辺りを見回した。
「心配することはないわ。この家は案外丈夫なの」
傍らで、やはりいつものように編み棒を動かしながらローザが教えてくれる。編んでいたひざ掛けもそろそろ佳境。これが終わったら、きっと彼女の手慰みも刺繍や縫い物に季節換えすることだろう。
ティリルとてこの家にもう数年も暮らしている。嵐さえいくつも経験しているので、建物の丈夫さはわかっているつもりだが、それでもやはり風の音と雨の音は耳について仕方ない。不安というより、抱いているのはただ悪戯な恐怖心。素直に、嵐の音が怖かった。
がたがたと、扉が泣く。きぃきぃと、壁が軋む。ぼづぼづと、雨が踊る。いつになく騒がしい山の家の夜。
編み棒を動かし続けていたローザが、ふとウサギが耳を立てるように顔を上げた。
「……誰か、来たかしら?」
ティリルには何も聞こえない。といおうか、風雨の音が酷くてそれ以外の屋外の音などまるで聞き分けられない。
「気のせいじゃないですか?」
首を傾げながら答える。音はわからないけれど、普段から訪れる人などまるでない山小屋。好き好んでこの嵐の中に戸を叩く人がいるとは思えない。――と、思ったのだが。
ドン、ドン。――すみません。
風とは違ったリズムで扉を叩く硬音と、風に流されて微かになった人の声。それが次の瞬間、確かにティリルの耳にも届いたのだった。
「やっぱりお客様のようね」
ローザが編み物を置いて立ち上がろうとする。一体この人はどんな耳をしているのだろう、と訝ること一瞬。慌ててティリルも本に栞を挟み、「あ、私が出ます」立ち上がってローザを抑えた。
とたとたと玄関に向かい、扉を開ける。一瞬扉の重さに驚かされ、次の瞬間には風と雨に襲い掛かられて顔を顰めた。
嵐の中、扉の前には頭からずぶ濡れの白いマントをかぶった人物が、仁王立ちしていた。
「夜分にすみません。道を訊ねたいのですが」
声を聞くに、どうやら男性のよう。背はティリルより頭一つほど高い。彼が一歩前に出て玄関に近付いた、そのおかげで、扉を支えるティリルに襲いかかる風雨の勢いが少しだけ遮られた。
「この辺りにゼーランドさんという方の家があると聞いて来たのです。ご存知ありませんか?」
問われて、ティリルはきょとんと眼を丸くした。我に返り改めて、風雨に負けないように声を張り、答える。
「私の家ならこの先にありますけど、今は誰もいませんよ」
「え、では貴女は――」
「ティリル・ゼーランドです」
名乗る。男は不意に声音を緩め、良かった見付かった、と安堵の息を漏らした。
頃合風が強くなる。何が何だかティリルにはまるでわからなかったが、この状態での立ち話が心底辛かったので、ひとまず男性を玄関に招き入れた。
扉を閉めると、自分の前髪も随分濡れていた。男の方は、顔の半分までを隠していたフードを脱ぐとまるで濡れていない小豆色の短髪と精悍な面持ちが現れる。マントにしっかりと油を塗り込んでいたらしい。どこか理不尽な気がした。
「あ、あの、それで……、あなたは一体?」
「はい。申し遅れましてすみません。私、サリアの王城から参りました国王陛下の使いの者でございます」
「え? ……ええっ?」
「ティリル・ゼーランド様に、陛下からのお言葉をお届けに参上した次第です。どうかお受け取り頂けますよう、お願い致します」
絶句する。まるで想像したことのない客人の訪問に、返す言葉が見付からない。ユリという田舎町から外に出たことのない一介の娘が、どうして一国の王なる人物と関わりを持つなどと想像できるだろう。
玄関に立って固まってしまうティリルと、その返答を辛抱強く待っている王城からの使者。軽く凍り付いてしまった場面を、ようやく動かしたのはローザの登場だった。用意周到、手にはしっかりとタオルを持ってきている。
「ティリル? 一体どうしたの」
「……え、あ、あの……。おばさん、私……」
周章狼狽するあまり、ティリルの声は言葉を発するのも覚束ない。そんな少女の有様に、さすがと言おうかローザは即座に対応。まず客人にタオルを渡しながらその様子を一瞥して検分。話が込み入ったものだとわかると、次いでマントを脱がせて彼を家の中に上げた。濡れたマントはハンガーに通して、玄関にある外套掛けに掛ける。片手ではティリルの肩を抱いてその混乱を慰めながら、もう片方の手はゆっくりと話が出来るダイニングに客人を彼を招き入る。その手際の良さ、貴族の館に侍女として奉公できそうな細やかさであった。