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遙かなるシアラ・バドヴィアの軌跡  作者: 乾 隆文
第一章 第十一節 寝坊と、借りた本
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1-11-3.妖魔の微笑







「そして、それとは別にゼーランド。私が遅れていたとしても、お前が遅れたことが不問に付される由はない。後で遅刻届を持って来るよう。いいな」


「え、あ、は、は……?」


 突然に指名され、ティリルは乾いた喉を震わせた。戸惑いを表情に出すもう一人の遅刻者に、教室中から笑いが向けられた。


 理が通っているのでティリルとしては何も言えないが、やはり若干の理不尽さは感じる。師の律儀さを、最後は笑いにまで変える小道具のように使われた気もして、素直に頷けず口を尖らせてしまう。


 ただ、教室から寄せられた感情は、悪い気のするものではなかった。今までのように悪意交じりの嘲笑ではない。ただ純粋に面白いと感じるが故の笑い声。決して、居心地悪くはなかった。


 きょろきょろと辺りを見回した時に、一つだけ。


 アルセステが、とても冷たい顔でにんまりと笑っていた。まるでユレアの山奥の洞窟に棲むという、口裂け面の妖魔ネデルアのような。寒気を催すような、バランスの崩れた笑顔。


 すぐに目を逸らし、気のせいだ、と自分に言い聞かせる。席は遠い。自分の目が悪いのだ。でなければ人の顔があんな風に見えるはずがない。自分に言い聞かせるが、見間違いだと思い込もうとする意識に反して、彼女の表情は今もなお目の前にある程に、瞼の裏に焼き付いて離れない。


 すでにラクナグの授業は始まっている。


 集中しよう。ティリルはぶんぶんと頭を振り、不安を掻き立てる色々なものを、頭から振り払った。




「では、ゼーランドさん。ごきげんよう、また来週」


 受講者が四人に増えた、ラクナグの補講。その終了後、アルセステがにこやかに手を振って、ティリルに別れを告げた。


 見間違いを裏付ける、好意的な笑顔。その表情に、ティリルの気持ちも解されていくのが分かる。アルセステたちと一緒にいる時間に慣れてきた証拠だ。相変わらず、四人で受けるラクナグの補講には違和感を拭えずにいる。ただ、「その相手がアルセステたちだから」という強張りは、だいぶ減らせてきたように思うのだ。


 アルセステたちが先に階段を降り、ティリルはまだ、ラクナグの前に佇んでいた。


「少しは慣れたようだな」


 穏やかに言う師に、ティリルも微笑み返した。


「ええ。最近は大分。おかげさまで他の人たちからの嫌がらせもめっきりなくなりましたし」


「順番が違うだろうが。アルセステたちのせいで、そもそも嫌がらせを受けていたんだろう?」


「あはは、そうでしたね」


 微笑んだティリルは、確かに完全に油断していた。忘れるほど、は言い過ぎだが、それこそ、今までアルセステたちがしてきたことに目を瞑ることができてしまいそうなほどに。


「油断はするなよ。あいつらがなぜこの補講を受けると言い出したのか、その真意がまだわからない」


「え、単純に、先生の講義を受けたいから、じゃあないんですかね」


「最初にも言ったように、あいつらの実力なら今補講で行っている内容は聞く意味がない。あいつらもそのことはわかっている。わかっていて尚、大人しくこの時間をお前と一緒に過ごしているんだ。何かを企んでいないはずがない」


 諭され、俄かに背筋を冷たくした。


 いつもにこやかに隣の席に座り、静かに真剣にラクナグの話を聞くアルセステ。自分が課されたのと同じ課題を、黙々とこなすルートとアイント。確かに彼らの方がティリルより魔法の実力がある。合わせてもらっている、という自覚は当然あった。だが、受けること自体が無意味、と言われるほど、彼らと熟練度が開いていたと思うと、まずそのことがショックであった。


 そして、彼らが何かを企んでいるという結論が、当然の推理の上にある、ということも。


「……わかりました。重々気を付けます」


 唇を噛み締め、緩みかけていた気持ちを結び直して、静かに、確りと返事をする。


「ああ。昼過ぎまで寝坊など、油断の極みだからな。気を付けろ」


「……はい。肝に銘じます」


 ここで細やかな嫌味を言ってくる辺り、ラクナグは相変わらずだった。


 さて、とティリルも荷物を持ち上げる。分厚いノートと、ペンとインクを入れた、黒い手提げのカバン。この、ノートの中身を見せるため、もう一人遅刻を謝らなければいけない相手がいる。


 最近は少しだけ距離が縮められたかな、と思えたが、それでも気が重かった。


「では、私も行きます。今日もありがとうございました」


「……うむ」


 下げた頭に、返される挨拶は少し歯切れが悪い。どうかしましたか? 首を傾げてみる。気付かない振りもできなくはなかったが、ラクナグの懸念は共有しておいたほうが自分のためにもなるような予感がした。


「いや、少し考えていたのだがな。お前の補講も、そろそろ終わりにしてもよいかもしれないな、と」


「え?」


 思い掛けない言葉に、ティリルの目が丸くなった。和やかにしたはずの挨拶。その挨拶に口許に浮かべた微笑みが、そのまま、表情に張り付いたままになってしまっている。今、何と言われたのだろう?


「アルセステにも言っただろう。私の講義に補講は必要ない。週に二度、一日九十分の実習で、基礎魔法行使学を修めるに過不足のないカリキュラムを組んでいるつもりだ。基礎学校にもこの学院の予科にも通っていなかったお前は、編入して間もなくは、魔法の使い方を全く理解していなかった。だが、この補講を繰り返し行う中で、既にお前は予科で習う程度の魔法行使技術は身に付けている。成績も上位ではないが、一番下ではなくなってきたしな」


 だから必要ない、というのがラクナグの言なのだろうか。とんでもない。一番下ではないかもしれないが、上には全く手が届かない。先生に教えてほしいことが、まだまだごまんとあるのだ。


 たどたどしい言葉で、そのことを伝える。答えも、ラクナグ師らしかった。


「お前が目指すのは、この基礎行使学での一番上か? 私が見ているのはあくまで基礎だ。基礎は重要だが、基礎を究めることには意味はない。自らを支える礎と出来れば十分だ。

 忘れるな。お前の専任教員はフォルスタ師だ。彼はああ見えて、王国内でも五指に入る第一級の魔法使。私などとは比べることすら烏滸がましい実力者だ。加えて、バドヴィア魔法学といういずれ魔法学の最先端になるであろうロジックの研究にいち早く取り掛かっている。

 私に十の質問をする暇に、フォルスタ師に一の質問をしろ。行使学を究めたいならな」


 いつも通りに冷たい、しかし思いやりのある言葉。ただ、ティリルのためだとしても、突き放すようなその言葉に、素直に頷くことはなかなかできなかった。


 もちろんフォルスタ師にも教えてもらいたいことは山程ある。その上で、だ。


「まぁ、今日明日に、という話ではない。とりあえず、来週の補講は通常通り行おう。その上で、今後どうするかをもう一度考えろ。いいな」


「…………はい」


 どうにか、頷きを返す。精一杯だった。


 子供のように泣き出してしまいそうに熱くなる目頭をぐっと抑えつけ、睨むようにしてラクナグ師を見つめる。


 その時間に、どれほどの意味があっただろう。いずれティリルは師から目を逸らし、それでは、と踵を返す。ラクナグの表情は変わらなかった。高々そんな程度のことに、悔しいなどと感じるほうが、子供じみているのだろう。




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