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遙かなるシアラ・バドヴィアの軌跡  作者: 乾 隆文
第一章 第十一節 寝坊と、借りた本
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1-11-2.夏の青空に雹が降る程







 どれくらい経ったのだろう。……という疑問は、愚問だった。昼休み終了の鐘が、校舎中に響き渡る。つまりは、それくらい時間が経ったのだ。あれだけ寝たのにまた少し眠くなってきていたティリル。だがその音にぱっと飛び起き、もう次の授業に行かなければ、とスカートの裾を整えて佇まいを正した。


 早足に廊下を進む。そこで、ようやく待ち人に出会った。胸許にかかる稲穂色の髪を、三つ編みにして肩の前に垂らしている、背の低い壮年女性。


「あら、ゼーランドさん。どうしたの?」


「ああ、よかった。セリング先生。お待ちしてたんです。その、今日、突然授業を休んじゃって。申し訳ありませんでした」


「ああ、まあそんなこと。欠席届を出してくれれば何も問題ないんですよ?」


 腰を九十度に近く曲げて謝るティリルに、師はそう微笑んだ。優しい先生だ、というのはティリルの印象にもあった。笑顔の似合う女性だ。


「何か事情があったんでしょう?」


「あ、いえ、その……」


 この笑顔を前に、本当の理由はなかなか言い辛い。淀むティリルの口だったが、出鱈目を滑らせて誤魔化す甲斐性も、この少女にはなかった。


「えっと、その、実は、寝坊で……」


「え」


 師の口許から笑顔が消えた。目の前で紙風船を破裂させられたような、きょとんとした顔をした。


 数瞬間を置いて、ようやく「そう」と口に出した時、その額にうっすらと青い筋が浮かび上がっていたことをティリルは見逃さなかった。見逃していたほうが、心持としては穏やかでいられただろうが。


「まぁ、次回からは気を付けてくださいね」


「あ、……はい。すみませんでした」


 笑顔が消えてしまったセリング師に、身を小さくして謝罪する。表情こそ険しくなったが、叱責の言葉が強く出てくるわけではないらしい。もちろん、そのことに安堵が生まれる由もない。彼女がこれだけ怒気を表現するだけで相当なもの。自分の反省が伝わるように、精いっぱい頭を下げた。


 窓の外で、二度目の鐘が鳴る。始業の鐘だ。これで、三限のラクナグ師の実習も遅れることが決定した。


「そんなに謝っても仕方がないでしょう。授業を欠席して損をするのはあなた自身です。悪いことをしたと思うなら、その分を取り戻すよう今後の授業で取り返してください。

 さあ、そんなことより、三限の授業は何もないの? そちらまで取り零すようでは、ここで頭を下げていることが何の意味もなくなりますよ」


「あ、はい! えっと、あります。その、本当に申し訳ありませんでした!」


 怒ってはいても、感情的にはなっていないセリング師。結局のところは、厳しいながらも優しい言葉をかけてくれる。その意図を受け取ったティリルは、これ以上ここでもたもたしている方が失礼だ、と判断した。


 最後にもう一度だけ一礼して、「では、実習に向かいます」と師に背を向けた。走り出したいところだが、廊下は走れない。少しだけ早足になって研究室棟の階段を下りた。


 神学史の授業で、セリング師とは数回やり取りをしただけだ。自分が編入生で印象が強い、ということも大きいとは思うが、顔も名前も憶えられていたというのが少々驚きでもあった。


 階段をテンポよく駆け下り、研究室棟を出て、実習室のある教室棟へ向かう。


 入り口で、なんとラクナグ師に出会った。


「あれ」思わず、疑問符が口をついた。


「ゼーランドか。この時間にどうした」


「えっと、その、前の時間の先生に話をすることがありまして……。先生こそどうされたんです? もう授業が始まっている時間じゃ――」


「いや……。研究室で本を読んでいたんだが、なぜか鐘の音に全く気が付かなくてな。面目ない」


 後ろ頭を撫でながらそう言うラクナグは、心なし気まずそうな表情だった。


 雹でも降るのか。それとも鉛玉か。師のあからさまな失態を、ティリルは初めて見た。厳しい顔ばかりが目立つラクナグ師だが、このところ意外な彼の顔をよく見るように思う。師との距離が近付いているような気がして、無闇に嬉しかった。


「とにかく教室に急ぐぞ。謝罪はお前も含めた全員にする」


 そう言って、ラクナグは大股に歩き始めた。


 律儀な性格だ。内心で苦笑しながら、ティリルも遅れられない。小走りになりながら、どうにか師の後をついていった。


 教室に入ると、他の学生たちはずいぶんざわついていた。それは、そうだろう。厳格なラクナグが時間になっても来ず、講義の中止の連絡もない。さぞ心配になったことだろう。


「遅れてすまなかった。言い訳にしかならないが、読書に集中しすぎたらしく鐘の音が耳に届かなかった。完全に私の失態だ。心から謝罪する」


 教壇に立つや、開口一番頭を下げる。それで、まず、ほとんどの学生は言葉を失って、それ以上何も言えなくなった。


「もし、今日ふいにした授業の時間の一〇分を取り戻したいというも者がいれば、本日の授業後か、来週の始業前、一〇分長く講義をしよう。もちろん、希望者のみの参加。希望しない者は途中入室、退室も自由だ」


 さらに驚くべき律儀さで、師は延長授業を提案した。それが正しいことかはわからない。皆が望んでいる形かも。ただ、意図は伝わった。普段基本的に補講も行わない、授業も時間通りにきっちりと終らせる彼が、参加自由の形で授業の延長を提案した。それがどれほど異例のことか、教室にいる人間は皆、理解していた。


「この補講だけで、ふいにした時間を取り戻せない、と感じた者は、手数をかけるが個別に私に話をしに来てくれ。失われた時間は取り戻せないが、なるべく、お前たちに損をさせたくない。重ねて、今回のことを謝罪しよう。以後、このようなことがないように重々気を付ける」


 深々と、もう一度、ラクナグは教壇から頭を下げた。


 もう、その時点では、教室の誰もが一歩身を引かせているほどだった。




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