1-10-7.部屋に戻って朝風呂に入って
部屋に戻ると、ミスティは起きていた。
元気になったみたいだね。体調は問題ない?という心配をかけてくれたのは最初の二言ほど。ティリルの格好を視界に入れるや、「何なのその格好は!」とまるで母親の如き剣幕でティリルを怒鳴りつけてきた。
「そんな格好で外を出歩いてきたのっ? ちょっとは考えなさいよ。あなたいい年した女性なんでしょう?」
ティリルは、こんな風に声を荒げてくれる母親を知らない。居候先の養母は、自分のことを実の娘のように思っている、と言ってくれた。だが、今のミスティのように大声で叱りつけるようなことは、一度もなかった。実の娘ではないという遠慮がどこかにあった、とも考えられるが、実子のウェルがそうして叱られているところも見たことがないので、単純に彼女の性格だろう。
一方的に怒鳴りつけるような「母親」のイメージは、ティリルの中にもあった。だがそれは、読んだ本に出てきた、という程度の知識でしかなかった。ミスティが、こんな風に強い語調で自分を叱責してくれるのがなんだか意外で、嬉しかった。
「あはは。朝早いから大丈夫だろうって、油断しちゃった」
「全く。朝早かろうが長期休暇の真っ只中だろうが、学院内から誰もいなくなる、なんてことはないのよ。誰にも見られなかったでしょうね?」
「それが――……」
「何っ? 誰かに見られたのっ?」
くわっと両眼を見開いたミスティが、むしろ自分がティリルを喰ってやるぞといわん勢いで両の肩を掴んできた。肩の痛みに顔が歪む一方、いくらなんでも心配しすぎだと口許に笑みも浮かぶ。合わさって出来上がった自分の表情は、どんなものだったのか。ぜひ鏡を見てみたかった、と悔やむくらい、経験のない筋肉の動きだった。
「そ、その、……ゼルさんに、会っちゃって――」
「ゼルっ? あの暇人、毎朝校内徘徊してんのかしら。そうやって、ティリルみたいに油断してる可憐な子を探し回ってるのかも」
酷い言われようだ。ようやく緩んだミスティの手を、ゆっくりとどかす。両手の指でぐにぐにと、軽く頬をつまんで揉みながら。
「別に何もされなかったよ。こんな格好じゃ危ないよって教えてくれたし。ゼルさんはいい人だもの」
「その油断がよくない。あいつだって男なんだから、ティリルみたいなかわいい子を前にしていつまでも我慢できるかわかったもんじゃない」
またそんな。私全然かわいくないし。今度は溜息交じりに答えた。
ミスティが自分のことを大事にしてくれているのはとてもありがたいが、時々、愛が重い。自分の容姿が十人並みだというのは自分が一番知っているし、実際男性を虜にした経験もない。
――中身だって、ウェルに散々かわいくねーなって言われる程度の捻くれ者だしね。心中で呟く。
もちろん、ミスティもその辺りの話は弁えている。彼女がここまで喚き立てているのは完全に彼女の過保護ぶりが所以であり、そのことについても彼女自身も認識している。つまりは冗談半分なのだ。
「とりあえず、着替えてくるよ、もうみんなに怒られないような格好に、ね」
「ええ、そうしなさい、もしこのまま忘れて今の格好で授業に行かれたらって思うと、気が気じゃないわ」
「さすがに、それはないよ……」
溜息交じりに答え、そのまま、自分の部屋とリビングを遮っているカーテンを開けた。
着替えを用意して、浴室へ向かう。「お風呂使うの?」ミスティの声が響いてきた。うん、汗が気持ち悪くて。答えると、それ以上の言葉はなかった。
魔法学院の学生寮には、各部屋に浴室があり、寮にしてはかなり大きな、ゆったりと足を伸ばして入ることのできる浴槽が備え付けられている。これもまた、学院を建てた初代学院長の趣味なんだとか。ソルザランド人に珍しく、彼は入浴を嗜んだらしい。おかげでティリルも、朝からゆっくりと入浴を楽しむことができる。ありがたいことだ。
尤も、ティリル自身、入浴が贅沢だと感じたり、珍しい習慣だと自覚したりすることは、あまりなかった。ティリルの実家にはこれよりももっと大きな椹造りの浴室があり、幼い頃は毎日父と入浴していた記憶がある。居候先のオレンジ家にも小ぢんまりとはしていたが毎日使える浴槽があり、入浴は歯磨きと同様、身嗜みの上でも当然毎日行うべき習慣として身についていた。学院に来てから知ったことである。サリアでも、一般家庭に浴室がある家はそうそうなく、入浴など街の集合浴場で週に一度行えば十分、と多くのソルザランド人が考えているということは。
ミスティも、多分に漏れず入浴の習慣のない人間だった。そもそもの生まれ故郷にそんな文化がなかったことも確からしいが、この部屋に住まわってからも彼女の習慣は変わっていない。最大の要因は、水を溜め、湯を沸かすのがとても大変だというその一点に尽きる。ティリル程度にでも魔法が使えれば、風呂に湯を張るのは然程困難ではない。適温の湯を召還するのは、氷を呼び出すよりずっと楽だ。時間はかかるが、三〇分も浴槽にしがみ付いていれば、気持ちの良い風呂を作ることができる。それに比べて、ミスティが風呂を沸かすためには、下階からつながるポンプを力一杯動かし、まず風呂いっぱいに水を張らなければならない。腕力自慢の男性ならいざ知らず、細腕のミスティではこの作業だけで一時間を軽く費やすだろう。さらにそこから薪をくべ、火をつけて適温になるまでを見守らなければならない。入浴後の浴槽の清掃なども考えれば、それを日課とすることの億劫さ、難儀さは、わざわざ想像してみなくとも容易に溜息が出る。
サリアの街にも大浴場がある。各街道沿いに、それぞれ百人は一度に入れる王立浴場が一つずつ。その他個人経営のものがいくつか路地の中にもあるらしい。学院の敷地にも一つある。小さくて古びていて、ティリルも一度でもう十分と苦笑いを浮かべたほど居心地が悪い浴場だが。それはともかく、ソルザランド人にとって、少なくとも魔法が使えない者にとっては入浴は週に一度で十分な習慣であり、魔法が使えるものであっても優先順位を上げる程の重要事ではない。そういうことであった。
「もったいないなぁ。こんなに気持ちいいのに」
ティリルは、風呂が好きだった。特に暑い夏、汗に塗れた体を程良い暑さの湯船に沈めるのは、例えようのない快感だ。ミスティには悪いが、せっかく早起きしたこの朝。まだ授業までには余裕があるし、ゆっくりと堪能させてもらおう。気が付けばいつの間にか鼻歌まで零れているのだった。
のんびりとした朝風呂から上がり、脱衣所でゆっくりと服を着る。下着は、下穿きと胸当て肌着。どちらも飾り気のない、グレーの厚手の生地のもの。聞いたところでは、女の子たちの間では最近とても派手で面積の小さい下着が流行っているのだとか。聞いた時には、他人に見せないようなところを着飾って何の意味があるんだろう、と首を傾げた。
ヴァニラは、「可愛いものを身に付けてるってだけで気持ちが上がってくるじゃない!」と、やや興奮気味に説いていた。リーラは、「私はリボンのついたやつが好きですね。もちろん誰にも見せませんよ! ……あ、でも、ティリル先輩になら見せてもいいですよ!」と。謹んで辞退してきた。だが成程、女同士なら見せることもあるのか、とリーラの言葉に得心した。確かに、自分が下着でお洒落をしたとして、ミスティなら見たがりそうだし、見せることにもそれほど抵抗はない。そうかそうかと頷いて、この話はティリルの中で終わった。どの道自分では買わない。国から奨学金を受け取っている自分が、可愛い下着に銭を費やすなどありえない。
というわけで、ティリルの下着は依然、色気も花もないグレー一色のものであった。
制服の白いブラウスを着、黒のスカートを着いて、余所行きの出で立ちを固める。汗も拭って、すっかり気持ちよくなった。後は朝食をとって、教室で始業の時刻を待つばかり。
「ティリル? まだ入ってるの?」
頃合い、ミスティが浴室に顔を覗かせてきた。いえ。もう出たわ。言って濡れたタオルをタオル掛けにかける。何か用か、とリビングに戻りミスティの顔を見ると。
「ねえねえ、朝ご飯作ってよ。お腹空いちゃってさあ」
ミスティが、甘えた声を出していた。
「えぇ? 今日ってミスティの当番じゃなかったっけ」
「魔法なしに火を熾すのってめんどくさいんだよ? ねー、玉子焼いてよぉ」
「しょうがないなあ」
苦笑しながら、ティリルは制服の上にエプロンを着けた。




