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遙かなるシアラ・バドヴィアの軌跡  作者: 乾 隆文
第一章 第十節 ある日のエレシア満腹堂
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1-10-5.朝の散歩で出会う相手






 街の中は、黄昏時でも喧騒が減らない。道行く人の姿は減るが、その分食事処で酒を飲む人の姿が増える。エレシア満腹堂は店内のみの営業だが、酒を出すことを前提にしたような一杯飲み屋は、往々にして道端にまで木でできた簡単な机や椅子を並べ、酔客の喧騒を近隣に裾分している。ユリとは違う、王都の夕刻。故郷では、町の中でさえ星空がかき消されることはなかった。星のない夜空には馴染めない。


 ふらつく足を持て余しながら、喧騒の脇を歩いていく。平気だと思っていた身体が、少しずつ重くなってくるのを感じた。ぼんやりした頭で通りの音と光を受け入れると、店の明かりが視界に滲んでは揺れていく。ティリルは学院へ、自分の部屋へ、歩く足を早めた。


 校門の前に守衛の青年が立っていた。門を入ろうとして、呼び止められる。


「学生か? 学生証はあるのか?」


 質問に黙って頷き、ポケットに潜ませた白銀のメダルを取り出す。裏に自分の名前と学生番号が彫られている。入学時に渡された個々人の学生証だ。


 守衛に見せると二三確認をとった後、眉を顰めながら道を開けてくれた。ぼそっと「こんな時間まで何を遊び歩いてんだ」と毒づく声が聞こえたが、返答を求めての発言ではないらしく、それ以上彼の視線はティリルに向けられなかった。


 昼間の出入りの際にも、当然守衛はいる。出ていくときに名前と学生番号を控え、帰るときにはそれを見せて入る。手続き通りの作業だが、明るいうちに校内へ帰ってきたときにはこんなに厳密に確認されなかった。一瞥で、ろくに名前も読まれず、柔和な老人が「はい、おかえり」と笑ってくれるくらいだった。日が沈んでから、ということで、こんなに警戒されるのか。息苦しい心臓が、なおズキンと締め付けられた思いだった。


 足早に校内を歩き過ぎ、自室へと向かう。


 出迎えてくれたミスティは、少し心配そうな顔をしていたが、それを言葉にはしなかった。遅かったね、疲れたんじゃない? お腹空いてる? まるで新婚の妻のように、ティリルの様子に気を向けてくれた。苦笑しながら、少し横になりたいの、と言葉少なにカーテンを閉めた。心配をかける態度だと自覚してはいたが、ミスティになら心配をかけてもしようがない、という思いがあった。ティリルなりにミスティに甘えられるようになった結果であったし、実際、気を遣えるほどの余裕はなかった。


 ベッドに横になった。


 頭の痺れはだいぶ楽になっていたが、まだ完全には治っていない。何がそんなに疲れたのか。考えるのは明日にしよう。


 服も着替えず、汗まみれの格好のまま、ティリルは気が付けば、眠りの底に静かに沈んでいった。



 

 まだ日も昇らぬ早朝に、ティリルはふっと目を覚ました。


 昨夜の疲労や体調不良は一体どこへ消えたのか。一転薄暗い部屋の中、まるでティリルの眠気は吹き飛んでしまっていた。疲労もない。今なら授業が始まる前に薪割りと畑仕事をこなしても、一日息を切らさずにいられそうだった。


 隣室の気配を覗く。ルームメイトはまだ寝息を立てている。


 前にもこんなことがあったな、と思いながら、ベッドに引き籠っていられなくなったティリルは、早朝の散歩に出かけることにした。


 昨日は食事も摂らず、倒れ込むようにベッドに横になり、そして気が付いたらもう朝になっていた。当然今も、昨日のままの服装だ。ひとまず上着を脱ぎ、数少ない他所行きのブラウスも脱ぐ。汗が乾いて気持ちが悪かったので、胸当て肌着も脱いで洗濯物入れに放り込んだ。


 下着を替えようか考え、やめた。散歩の後に、湯浴みをしよう。本格的に着替えるのはそれからにしよう。なのでスカートと下穿きはそのまま。上も、新しい胸肌着とブラウスを着るのは後にして、今はラフな白シャツ一枚、いつも部屋着にしているような格好で十分。そうして、装いを決めた。


 気候の面ではとても過ごしやすい出で立ちだが、人に見られたらどうかと思い悩むほどラフで薄い格好でもある。ティリルは、どうせこの時間に誰も外などで歩いていないだろう、と楽観した。少しくらい大胆になれるほど、ティリルの心は穏やかで心地よかった。


 忍び足で共用部屋を歩き、そうっと玄関を開ける。


 久しぶりにと、無花果の木の生える校門前の休憩スペースに向かう。相変わらず、静かで人の気配のない、落ち着けるスペース。久しぶりにベンチに腰掛けると、涼やかな風が前髪をくすぐって、ティリルの表情を綻ばせた。


 昨日のことを思い返すと、少しだけ心がざわつく。手伝いを申し出たのに、結果体を壊しタニアたちに迷惑をかけた。ヴァスケス氏もタニアも、頻りに感謝の言葉をくれた。だがそのどれ程が心からの言葉だったのだろう。よしんば自分の好意からして彼らにとっては邪魔なものだったとしたら。


 アルセステ達にも迷惑をかけた。彼らが自分の心配をしてくれたなどとは思わないが、それでも自分が倒れた直後はきっとざわついたことだろう。穏やかな食後の休息時間を、自分が騒がせてしまった。そう思うと、やるせなかった。


 後で会ったら謝ろう。抵抗はあったが、そう心に決める。


 ヴァスケス親子には平日には会えないが、来週また食事に行こう。気持ちを込めて一番高いメニューを頼み、ちゃんと客としてお店に貢献しよう。


 ベンチに座りながらうんうんと頷く。思考自体はネガティブな方向に進んでしまうが、結論は前向きだ。体調や気候の清々しさが、後押ししてくれているのを感じた。


「あれ」


 と、ベンチの背後から、声がした。


「やっぱりティリルか。また会ったな、ここで」


 振り向くと、いつかの顔。ゼル・ヴァ―ンナイトが、そこに立っていた。


 前にもあったように早朝に目を覚ますと、前にもあったように彼と会った。偶然の不可思議さに、ティリルはぽかんと口を開け、言葉を失った。


「あ、ゼル、さん……。おはようございます」


「ああ、おはよう。気分のいい朝だね。ティリルも朝の散歩?」


「はい。その、昨日いろいろありまして早く寝たもので、朝早く起きちゃって」


 いろいろあって早く寝たの? 風邪とか? ゼルが少し心配そうに表情を曇らせたので、ティリルは両の掌をぶんぶんと振って訂正した。


「ち、違います! 風邪じゃないです! その、ちょっと具合は確かに悪かったんですけど、早めに寝て休んだら今はもうすっかりで。むしろここ最近で一番元気なんじゃないかなってくらいに回復したので、それでちょっと散歩に……」


「へぇ、そうなんだ。それは何よりだね」


 言いながら、ゼルはゆっくりとティリルの隣に回り、ベンチに腰掛けた。慌てて脇に寄る。どうぞ、と場所を空ける。ああ、ありがとう、礼はくれるものの、ゼルは心ここに在らず、といった感じで、ただじっとティリルの顔を凝視していた。





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