1-10-4.タニアの部屋で目を覚まして
目が覚めると、見知らぬ私室だった。
柔らかな、そしてやんわりと魚の匂いの染み付いた蒲団。むくりと上半身を起こすと、窓の外に赤らみ始めた大きな太陽が見えた。
夕焼け。ぼんやりと、西の窓の外を眺める。先程まではまだ、昼だったと思う。もう夕方。そんなに長い間自分は寝てしまっていたのか。そもそも自分はなぜ寝てしまったのか。靄のかかった頭では、考えたつもりでも全くわからない。疲れていたのかなあ……。
はあ、と深く溜息をつき、ふと窓から視線を動かして部屋の中に顔を向けると。
「ふぁっ?」
ベッドのすぐ脇に、タニアが座っていた。
「えっ、あの、あれっ」
思わず発してしまった驚きの声と、全然気付かなかった自分の迂闊さに、恥ずかしさを覚えつい狼狽えてしまう
タニアは身動ぎしなかった。ティリルの寝ているベッドの脇に椅子を置き、しずやかに座って、ただティリルを見つめていた。そして、狼狽えるティリルを見ても、しばらくの間口を開こうとしなかった。
「……あ、あの、私、その、ごめんなさいっ、何だかいつの間にか寝てしまっていたみたいで……」
「ティリル、ほんと、ごめんなさいね」
ティリルの言葉を聞いているのかいないのか。沈み始めた夕日の色をその表情に受けながら、タニアは静かに謝った。眉間に皺を寄せている。日の当たり方のせいか、失礼ながらひどく疲れた表情に見えた。
「…………えっと……? ごめんなさいって、何を……?」
思わず聞いてしまうほど、タニアの思いつめた雰囲気は不思議だった。自分が寝ている間に、何かあったのだろうか。
「いえ……。お店で働いた経験がなかったっていうのに、あんな一番忙しかった時間帯に手伝いをさせちゃって……。やっと取れた昼食も、アルセステさんたちと同席じゃ、寛げなかったでしょう」
「そんなことっ!」思わず大声が出た。「確かに初めての体験でしたけど、とっても楽しかったです。ご迷惑だったら申し訳なかったですけど、……私のお手伝い、邪魔でした?」
「まさかっ!」今度はタニアの大声。「ほんとに助かっちゃったのよ。忙しくなりそうな日はいつも雇いの人にお願いしてるんだけど、今日はたまたま、お父さんの読みも外れちゃって。二人だけだったら本当、大変なことになってたと思う。」
「それならよかった。たとえ嘘だったとしても、そう言ってもらえたら、私でも役に立てたんだって自己満足して帰れます。それに、アルセステさんたちとも、結構気兼ねなく話ができたと思うんですよ」
笑って、胸を張る。虚勢も半分以上は混ざっている。それが証に、向こうがどう思ってたかはわからないですけどねー、と保険をかけておく気の弱さの付録付きだ。
それでも、自分に心配を向けてくれる友人に、舌の先を出して後ろ頭を撫でながら平気な顔をできるくらいには自分も強くなったと思うのだ。
「……そう。うん、向こうがどう思ってても、ティリルが平気なんだったら、いいけど」
タニアの声が、どんどん小さくなる。いつもはルースに負けない元気印の、お店の看板娘なのに。そんなに心配をかけてしまったんだろうか。……かけてしまったんだろうなあ。お店で突然倒れたら、友達なら心配するに決まっている。
「あ、ああ。そうですよね。そんなことより先に、私謝らなきゃですよね。ごめんなさい、ご心配をおかけしました」
「ええ……。その、もう、平気なの? 頭がぼーっとしたりとか。――あっ、お医者さん呼ぼうか」
「いえいえいえっ、全然、そんなんじゃないですっ。必要ないですって」
身を乗り出してティリルの顔に顔を近付けてくるタニア。ティリルは気持ち仰け反りながら、両手を振って力いっぱい否定した。
自分は頑丈だ。意外に思われることも多いが、山育ちで体力もある。病気はおろか、ここ十年は小さな風邪も引いていないし、ローザの手伝いで町までのお使いや薪割り、といった重労働を重ねてこなしても、一晩寝れば疲れは残らなかった。その日のうちに倒れこむなど、今日があんまり貧弱すぎる。
「ほらっ、こんなに元気ですから、心配しないでください、ね?」
ベッドから立ち上がり、両手を上げる。
途端、足許がふらついた。平気だと思った身体だったが、まだ快癒したわけではなさそうだった。
「あっ、ほら。やっぱりまだダメなんじゃない。静かに寝てて。お医者さん呼んでくるから」
押し倒すようにティリルの体をベッドに座らせるタニア。気持ちは嬉しいし、心配もかけて申し訳ないと思うが、もう、帰らないといけない。夕日も大分傾いていた。あまり遅くなると、学院の門が閉められてしまう。
「ご心配おかけしてすみません。でも全然平気なんですよ、変な時間に寝たもので、まだちょっと頭がふわふわしているだけで。
お医者さんに診てもらう程のことではないですし、学院の門限もあります。もう本当に、今日は帰らなくちゃ、です」
もう一度、タニアに頭を下げる。タニアもそれ以上言葉を重ねなかった。ただ、小さく頷いて、「そう……。気を付けてね」と、呟くように言うだけだった。
ベッドを借りたのは、店の二階だったらしい。階段を下りて階下に進むと、タニアの父が厨房から顔を覗かせた。
「あ、起きたのか。もう具合はいいのかい?」
人好きのする、威勢良くもやわらかい声。
はい、もう大丈夫です。努めて明るく答える。まだ頭にうっすらと靄がかかっていたが、歩くのに不安は残らない。今度の「もう大丈夫」は嘘ではなかった。
「こんな時間までお邪魔しちゃってすみませんでした。また、来ますね。今度はさっと帰りますから」
「いいんだよぉ。ティリルちゃんみたいなかわいい子がいつまでいてくれたって。うちのヘチャムクレなんかよりよっぽど店に花が咲くよ」
「誰がヘチャムクレよ。賄いに唐辛子ぶち込むわよ」
タニアが父親を睨む。ほらな、かわいげねぇんだ。ヴァスケス氏も負けていない。
二人のやり取りに微笑みを零しながら、それじゃあまた、ともう一度頭を下げた。




