1-10-3.遅い昼食の席で
四人掛けの席に、四人で座る。アルセステとティリルが向かい合わせに。アルセステの隣にルートが、ティリルの隣にアイントが。顔がよく見えるルートは、にははと楽しげな笑みを浮かべ、横顔しか見えないアイントは嬉しくなさそうに目を伏せていた。
「それで」早速、アルセステが口を開いた。「ゼーランドさんが、シェルラとここに来たときは、一体どんなお話をしたの?」
シェルラが横から睨みつけてくるのがわかった。この勢いだ。どんな話をしたなんて、とっくにシェルラから聞いているだろう。
「そうですね。アイントさんに、私のことについて誤解があったようなので、本当のことをお伝え致しました」
「へぇ? 誤解。それはどのような?」
「主には、私の評判についてです。アイントさんは私のことを嘘吐きだ、と仰っていましたが、私自身、自分がバドヴィアの娘だと自分から喧伝したことはない、と」
「あら、そうなの? じゃあ、やはりあなたはバドヴィアの娘ではない、と?」
「いいえ。それは本当です。聞かれればそう答えます。私が自分から誰かに言ったことはほとんどない、という意味です。本当に近しい、信頼の置ける方々にしか」
「つまり『嘘』吐きではない、という以前に嘘『吐き』でない、と」
「そういうことです」
頷いた。
アルセステは狡猾というイメージが強い。アイントは盲目的にアルセステのことを信頼していて、爪の先ほどの些事であってもアルセステの言葉を否定することは許せない、という感情派だった。アルセステは違う。落ち着いて話ができる分、こうやって面と向かって言葉を交わすのは気が楽だった。
「そう。成程ね、確かに、ここしばらくあなたと一緒にラクナグ先生の補講を受けて、どうやらあなたはそんな嘘をご自分で広めるような方ではない、と印象は持ったわ。何かの間違いかもしれない、と」
え、と声を上げたのはアイントだった。
お待たせしました、とタニアが料理を運んでくる。今日のおすすめはスズキの香草焼き。迷わずティリルはそれを頼んだ。
アルセステたちは、皆違うメニューを頼んでいた。
「まずは食べましょう。知っているとは思うけれど、ここの料理はとても美味しいの。せっかくなのに、下らない話に夢中になって冷ましてしまうなんてとんでもないわ」
突然に、キツネが人に近付いて手を舐めるような、そんな人の心を弄ぶような笑顔をアルセステが見せた。気を許してはならぬ、そう言って鳴る警鐘を荒布で包み込んでしまいそうな。思わず、心底信頼してしまいそうな。
「ゼーランドさんはいつも、おすすめを食べているの?」
「え、……あ、はい」続けてアルセステが投げかけてきた、一見他愛のない雑談。見た目通りに無邪気な質問なのか、ついつい慎重になってしまう。「そうですね。こちら、日によって入ってくるお魚が違うって聞いたものですから。食べたいものを決めてしまうと、漁の次第では今日は食べられません、なんてことがあるって教わって」
「なるほどね」
ふんふん、と頷くアルセステの注文は、サーモンのバターソテー。私は、ここのメニューで一番美味しいのはこれだと思うの。ほっこりと微笑んだ。
「これなら、いつ来てもないということはありませんしね」
ようやく、アイントも口を開いてくれた。相変わらずティリルを睨んではいたけれども、声音は、いつも通りアルセステ以上の穏やかさだった。
「そうなんですか?」
「ええ。なにせこのサーモンは、目の前の海で獲れたわけではないですから」
「シェルラ。別にそんなこと言わなくていいのに」
黒いショートヘアの前髪を上品にかき上げながら、アルセステが静かに窘めた。前にも見たことがある様子だな、とティリルは微か眉間に皺を寄せる。
「ここのお店は昔は目の前の海で獲れた魚だけ扱ってたけど、ラヴィーのお父さんが遠くの魚を届けるようになってから、毎日決まったメニューを出せるようになったんだよ」
「ええ、まぁ、父の会社が、という意味だけれどね」
舌っ足らずに話に加わったルートに、アルセステが頷き、補足した。口では二人を制止しながら、誇らしげな表情を隠しきれない。言ってしまえば、家業が自慢で仕方がないのだろう。困っている商売人たちのことを思えばそんなことも言えないのだが、ティリルは初めて、アルセステのことをほんの少しだけ「かわいい」と思った。
「なるほど。他所でしか取れない魚や食材を、いつでも食べられるメニューとして並べているのは、アルセステ通運さんのおかげなんですね」
すごいんですね。さすが、耳に聞こえる大企業! 我に似合わず、珍しくおべんちゃらなど使ってみる。業とらしいかとも思ったが、アルセステの表情を見るとまんざらでもない様子で、上目遣いに「ゼーランドさんまで。からかわないでよ」なんて頬を紅潮させている。
褒められることに関しては、案外単純なのかも。心の中でくすくすと笑った。
バターソテーも食欲をそそる馥郁とした香りを漂わせていたが、スズキの香草焼きもなかなかのもの。労働の後という付加価値もあってか、いつもなら食べ終わると少し苦しくなるほどの量があるほどのお店だが、今日はまだまだ、もう一品軽いサイドメニューくらいなら食べられそうな気さえする。空になった皿を前に両手を合わせる他の三人の前で、とてもそんな注文はできないが。
「ごちそうさま。やはりこのお店はいつ来ても美味しいわ」
アルセステが賞賛した。背後で、タニアが小さく一礼する。もう他の客は誰もいなかった。
ええ、本当に。相槌を打とうとして、ふと、眩暈がした。
タニアが素早く、空いた食器を下げて行ってくれる。そう言えば、洗い物を途中にしてはいなかったか。してもらったことに慄き、「すみません自分でやります」腰を上げかけた。
瞬間、足から力が抜けた。一度座板から持ち上げた尻が、ぺたんとまた落ちる。
「……?」
「大丈夫よ」
怪訝に首を振り、タニアの笑顔になんとか会釈を届ける。どうしたのだろう。体が一瞬、自分のものではなくなったような、不思議な脱力感だった、
「ゼーランちゃん、意外に気ぃ遣いなんだねぇ。ここはお店だよ? お客さんが片付けまでする必要ないのに」
ルートが、眼鏡の奥の目をきょとんと丸くしていた。自分が気を遣う性質なのは重々承知しているが、その上で。「でも、先程までは私がしていた仕事ですし……」答える。
答えながら、頭がぼんやりとする。今、自分が言おうとした言葉は覚えているが、口から発した言葉がそれと同じものだったかはわからない。
「――ゼーランドさん?」
アルセステが、ティリルの顔を覗き込む。
笑顔を返そうとして、ふっと首から力が抜け、そのまま、今まで食事をしていた眼前の机に頭から落ちてしまった。
「ゼーランドさんっ? ゼーランドさんっ??」
ガタガタと椅子の動く音。アルセステ達が立ち上がり、自分に声をかけてくれている音。タニアや店の主人も駆け寄ってきてくれる音。中には、そう思い込んだだけでそうではなかった音もあったのかもしれなかった。
何がさてティリルの意識はここで途切れる。
故、それ以上のことは何もわからなかった。




