1-10-1.平穏な日々
一か月程は、穏やかだった。
最大の懸念だった、アルセステ達と一緒に受ける補講も、取り立てて何かが起こるでもなく淡々と過ぎていった。アルセステも、ルートもアイントも、積極的に発言し質問するので、ティリルの補講という意味では少々効率が悪くなっていったが、妨げになるという程ではない。むしろアルセステ達も魔法行使の実力はあり、彼らの発言、発想に刺激を受けることも往々にしてあった。
あの闇曜日の昼間のやり取り。アイントから何かのアクションがあるかとも心配したが、ひとまずは何もない様子だった。恐らく、話くらいはアルセステの耳に入っているのだろう。だが、ネチネチと攻撃するにはその程度のネタでは弱い、と考えているのか、否か。とにかくも、彼らは静かなものだった。
フォルスタとの関係も良好だった。先日のやり取りはティリル自身、思い返すとつい噴き出してしまう程に愉快なものだったが、フォルスタにとっても決して悪い気のするものではなかったらしい。真面目な顔で魔法論議を重ねるフォルスタ、そしてダインの様子は今まで通りだが、時折老が見せるようになった口を尖らせるような顰め面は、確実にティリルを意識したものだ。その表情が可笑しくて、もっと見たいと思うようになって、自然ティリルは師の研究室にいる時間が延びていった。まだまだ学業の結果への反映はあくまで副産物、と表現すべき程度のものでしかなかったが、それでもそんなティリルの成長に師は十分満足そうな顔を見せてくれた。
部屋に帰れば帰ったで、ミスティとの会話も今まで以上に滑らかになって来たように感じていた。何か不具合があったわけじゃない。ミスティと話したくないと感じたのは、先日街に飛び出したあの闇曜の朝くらいのものだったが、その、闇曜の前と後とで気の置き方が少し変わった。そんな気がしていた。
具体的に言うと、敬語が出なくなった。ミスティに指摘されたのは、その闇曜から一週間は経った日のことだった。
「ねえ、ティリル。勘違いだったら恥ずかしいんだけどさ。最近、私のこと好き?」
飲んでいたスープを吹き出しそうになる。
「え? ちょ……。何それ」
「いや、ほら。その、何ていうかさ」
「? 何ていうの? 全然わかんないんだけど」
変なミスティ。そう笑う自分が、以前と変わったのをティリルも自覚していた。
敢えて気付かぬ振りをした。ミスティの言いたいことが実のところはわかっていて、認めるのが気恥ずかしかった。
ところで、アイントと昼食をとった闇曜の、その翌週もティリルは学校の外に出て、あの南大通りに沿ったエレシア満腹堂へ出向いた。先週は緊張感の漂う中、ろくに料理を味わうことができなかった。今度は、タニアとそのお父さんの料理をゆっくり味わってみたい。そんな思いから、何となく学校の外へ出たのだ。
彼女は歓迎してくれた。この前は居心地の悪い思いをさせちゃってごめんね、などと、全く彼女が悪くないことを返す返す、と謝ってくれた。とんでもない、こちらこそお騒がせしちゃってすみません。そんな暖かいやり取りが心地よく、混み合った店内だというのについつい長居してしまう。おまけに、「はいこれ、サービスね」なんて、小さなお皿に乗せたマリネを一つ。横から小声で出していってくれる。
お店も彼女も、ティリルの大のお気に入りになった。毎週、闇曜が来るのを楽しみにさえするようになって、これについてだけはアイント女史に礼を言わなければならないな、と思う程だった。
目に見えたいじめがなくなり、周囲の視線は気にならなくなった。一番の懸念だったアルセステ達との距離感も測れるようになってきた。ラクナグ師はもちろん、フォルスタ師の研究室も息苦しさを全く感じなくなってきた。自分では、いろいろと変わったつもりでいた。学問への意欲も。周囲への姿勢も。何より、明るく振る舞えていると思っていた。
だが結局のところ、ティリルの魔法行使の実力は何一つ変わってはいない。どんな問題を退けても、その一番の一点が何も変わっていないことについて、ティリルはまだ、自覚することを避けていた。
エレシア満腹堂に通い始めて、今日で四度目だった。この日はとみに繁盛していて、タニアとまるで挨拶すら交わせないでいた。注文を伝えるのも一苦労で、その後も三十分、一時間待っても料理が届かなかった。
「ごめんね。もうすぐ用意できると思うから。あっ、はい、ただいまぁ!」
一瞬の隙を見計らってティリルに挨拶をくれたタニアだったが、すぐに他の客に呼び止められ、そちらに顔を向けてしまった。大丈夫です、お気遣いなく。そんな愛想を送りたかったが、受け取る余裕も、今日のタニアにはないようだ。
忙しい店内で、ぼんやりと時を過ごすのもなかなかに気を遣う。気温の高いこの季節。喉も乾くが、水のお代わりを頼むことさえ難しい。
よし、と意を決し、ティリルは再び近くを通ったタニアを、少々強引に呼び止めた。
「あの、よければお手伝いしましょうか?」
他意のない提案だった。目の前で友人が忙しそうに働いているのに、自分ばかりゆっくり座っているのは気が引ける、それだけだった。その考え無しの提案に、タニアの目が一瞬大きく見開かれる。恐らく「そんなのいいよ」と言いかけたのだろう。一瞬口が開き、ほんの一瞬迷いを見せて、結局出てきた言葉は「ごめん、お願いできる?」だった。
もちろん。頷いたティリルは、まず既に空になっていたグラスを手に立ち上がり、厨房へとずかずか向かっていった。中で調理していたヴァスケス氏は最初、真面目な顔で立ち入りを拒もうとしたが、タニアが「手伝ってくれるってー」と大きく一声投げ込むと、先程のタニアと同じ反応をした。断ろうとして、考え込んで、結局承諾。実に親子らしかった。
「ごめん、これエプロン。とりあえず、お皿洗ってもらえるかな?」
頼まれた仕事は、成程確かに誰でも手伝えそうなことだった。わかりました、と安堵の溜息を交えながら頷いたティリル。せめて自分のできることを精一杯やってやろうと、ベージュの上着を脱いで横の机にかけ、ライトグリーンのブラウス一枚。その格好で、借りたエプロンを上に着ける。迅速に準備を整えると、即座に魔法を唱え、手許に水を召還した。
大きな盥に水は張ってあったが、既に少し汚れていた。いつもなら、店の貯水槽から少しずつ新しい水を補充するのだろう。
一度しっかりと水を捨てた盥にティリルは新しく水を張り、さらにその水を操って小さな水流を作る。中に石鹸と汚れた皿を入れ、水流に任せると、皿は見る見るきれいになっていった。
水を起こし水を流すだけの魔法なら、どうにかティリルにも操れる。難しい点は、乱雑に操ってしまうと食器同士がぶつかって欠けてしまうこと。逆に言えば、そこにさえ気を付けていれば、水流を必要以上に激しくしなければそれほど難しくはなかった。
食器も一度に入れ過ぎず、欲張らず少しずつ洗う。きれいになった食器を手作業で拭きながら、水の流れを操る。慣れてきた。多分一つずつ手で洗うやり方の、倍くらいの速度では洗えていると思う。
ヴァスケス主人の手許に洗い終えた食器を早速持っていくと、「もうこんなに洗えたのか」と驚いた顔をしてくれた。十分すぎる賞賛だった。




