0-2-5.背中すら見送れなかった
――朝。
布団を頭からかぶって泣き寝入りしたティリルの部屋に、ウェルはとうとう挨拶に来なかった。自分から起き出す気にはならない。泣き腫らして、きっと真っ赤になっている眼をウェルに見られたいとは思わない。こんな感情を抱いたまま彼にどんな顔を向ければいいのかもわからない。けれど。このまま。
何の言葉もなく、表情もなく旅立たれてしまうなんて、それもあんまり冷たくて、淡白で悔しい。
右手の爪を立て、ぎゅっとシーツを握る。意地を張ってウェルに怒っている態度を見せて、それで何か嬉しいことがあるのかといえば寧ろ虚しいだけなのだが、といって意地を張るのをやめて笑顔を作って彼の背中を見送ったところで、この辛さはきっと消えない。それに、もう遅い。遠くから、パタンと届いた微かな戸の音。きっと今のが、ウェルの出て行った音に違いない。もう、遅いのだ。
窓から外を覗いて彼の姿を探すことさえしないで、ティリルはそのまま眼を瞑った。
少しして、部屋の扉がノックされる音を聞く。まさか、ウェルだろうか……。
「ティリル? 起きているんでしょう?」
ドア越しに穏やかな暖かい声が届く。
ウェルではない。当たり前だ。わかっていたことではないか。
「ちょっとお邪魔するわね」
返事もせぬうちに、ローザは扉を開いた。布団から頭だけ出してローザを迎えると、彼女はどことなく髪形がおかしく、身につけたブラウスやスカートもしわが寄っていた。身なりに気を遣う彼女にしては珍しい。きっと、ローザも落ち着いているようでいて、ウェルの旅立ちに心を配ることが多かったのだろう。そして恐らく、ウェルはそんなローザの寝癖にも気付かずに出かけてしまったに違いない。やっぱりウェルは親不孝者だ。ぷぅと頬を膨らませながら、ティリルは心中で幼馴染を毒づいた。
部屋に入ったローザは、扉を閉めてから徐に、ティリルの寝るベッドの端に腰掛ける。そしてそうっと、ティリルの頭に柔らかな手の平を乗せた。
「ウェルはもう行ってしまったわ」
膨れたまま、首だけこっくりと動かして頷く。
「あなたは良かったの?」
優しい声は、途切れない。
「……いいわけ、ないです」呟いた。「いいわけないです。でもどうしようもないから……」
「なぜ?」
「なぜって……」
ティリルはローザの顔を見上げた。少女を見つめるローザの瞳は、いつもとまるで変わらず淡い月の光のような優しさを湛えている。
「私のことを気にかけているのなら、それは間違いというものよ」
「…………」
「あなたがどう思ってくれているのかわからないけれど、私はあなたのことを本当の娘だと思っているわ。だから、あなたにはあなたの望む道を歩んでほしい」にっこりと微笑んで、「娘は、少しくらい母親にわがままを言うものよ」
そう、諭してくれた。
ローザの言葉は、ティリルにも伝わる。今ならまだ間に合う。ローザの眼が語っている。
……けれど、違う。違うのだ。それはティリルの望んでいることじゃない。そしてティリルが望むような展開は、やはり今からではもうどうにもならないのだ。
「……私は、ウェルとは違います」
口をついた言葉が、それだった。
「……そう」ローザが俯いて応える。「後悔はしない?」
「もう、してます。……どこで違う道を選んじゃったのか、私にはわからないんです」
呟いてもう一度頭から布団をかぶる。丸くなったその姿は、さてローザには卵白のゼリーに見えているか、雪人形の頭に見えているものか。存外『布団の塊』とつまらない答えをくれそうな気がする。それが一番、ローザらしい言葉に思えた。
幼い頃のウェルならば豚まんとでも呼んだだろう。彼にはデリカシーというものがなかった。
今日のウェルなら何と言っただろう。いつの間にか、ウェルの言葉が見えなくなっている。そして、来年か再来年か、帰ってきた時のウェルのことなど、最早どう変わっているのか想像さえできない。ウェルはウェル。わかったつもりになって、安心していたのは自分なのだ。気付けなかったことが、ひたすらに悔しい。
「わかったわ」
ゆっくりと頷いて、ローザは立ち上がった。
「あなたはきっと、あなたなりに悩んでいるのね。私の想いとあなたの心も少し違ったよう。
でもね。それでもやっぱり私、あなたにも望む道を歩んでほしいと思っているの。ウェルだけじゃなくて。だから、思い悩むのが苦しいならいつでも相談していらっしゃい。私はあなたの母親なのだから」
「…………」
優しい言葉を残して、ローザは部屋を出る。ぱた、ぱたとベッドから離れ、きぃと扉を軋ませて開ける。
布団の中で丸まったティリルは、まだ首を出せぬまま、ぽつりと。
「……ありがとう、ございます」
答えた。
クス、と笑い声。合わせて「どういたしまして」という返事。最後に静かに扉を閉めて、ローザは来たときと同じように足音を立てずに部屋を出て行った。
一人になる。
心は結局、何一つ納得していない。
何より自分の気持ちに納得していないことに、言いようのない辛さを覚える。ウェルのことを考えると、まるで自分が責められているような気になってしまって、布団に押し潰されそうだった。
もそもそと布団から這い出て、机の引き出しに手を伸ばし、中を漁る。すぐに手が見つけ出す、白い小さな布包み。赤いリボンがかけられた、その中身は青いバンダナ。数日後に迫っていた、ウェルの誕生日のプレゼント。
……もう必要なくなってしまった。包みを見つめながら、ティリルは小さく、深く嘆息した。