1-9-2.ゼルと、もう一人
「……こんなはず、だったかなぁ」
寄せる波の飛沫を遠目に眺めながら、ぼんやりと呟く。
王城からの迎えが、セオドがユリの山奥にやってきて、嵐の夜に家の戸を叩いて。晴天の下、馬車に乗り込んだ自分は、期待とやる気に充ち溢れていた。遥々の旅路を終えてサリアに辿り着いた時には、胸が躍らんばかりだった。王城で国王陛下に挨拶をするとなったときは、緊張で頭がおかしくなってしまいそうだった。それでも、学院に足を踏み入れ、ミスティに案内されて自室に入ったときには、これから始まる新生活にいくつも夢を抱いた。
そんな、夢躍るサリア魔法大学院で学習しているはずなのに、実際の自分はどうなのか。
バドヴィアの娘だと言われた実力は、未だに下から数えた方が早い程度。そのくせ周囲の視線ばかりが気になって、胸を張って廊下を歩くこともできていない。訳のわからないいじめっ子には目を付けられ、嫌がらせの標的にされるわ補講をしてくれている先生にまで迷惑をかけるわ。
一から十まで順風満帆に進むわけなどない。それぐらいの覚悟は持ってきていたつもりだったが、逆に、何なら今進んでいるのか。何から何まで、自分の求めていたものは巧く進んでいなくて、自分が今学院にいる意味など欠片も存在しないのではないか。
鬱々と考え込むには、快晴の下の凪いだ港は打って付けだった。
寄せては返す波音が、蜿蜒と頭の中で繰り返される。まるで、雁字搦めに締めつけてくる蛇のように。
「本当に、このまま海を渡っちゃおうか……」
投げ遣りに、自分の腕に向けて言い放つ。ダザルトでなくてもいい。ウェンデでもアトラクティアでも、ここではないどこかならどこでもいい。――そうして、空想して一層落ち込んだ。
首を上げ、空を見上げる。波の音に乗り、風が躍った。
日は、いつか、南天の頂きに差しかかっていた。
思い悩んでいても腹は減る。いじめに悩んでいた時は食欲がない時も多かったのに、今は悩んでいるつもりでもこの程度なのかな。そんなことにまで小さなショックを受けつつ、ティリルはゆっくりと、立ち上がり港を離れていった。
通い慣れぬ都の道、南大通りを歩きながら手頃な店を探す。ミスティに案内してもらった西街道側の店は二三知っていたが、南側のことは全く分からない。しかも西側の知っている食堂も、ミスティと一緒に入るのによいお店だったのであって、一人で入りやすいかと問うとそんなこともない気がしてくる。一人でも気軽に入れそうな。若い女性向けで安価そうな。それでいて美味しそうで、心惹かれるお店。そんな店を、全く知らないこの南街道側で探す。
改めて条件を羅列すると、自分がなんて難しいミッションに挑んでいるかを痛感させられた。もう、とりあえず目に入る大衆食堂に飛び込んでしまおうか。ふらふらと頭を振り回し、右に左に並ぶ様々な看板を眺めていると、ふと、小さな路地に入る角に、見知った顔がいることに気が付いた。
手入れの届いた黒髪。女性にも見紛う整った目鼻。ゼル。
正直なところ、昨日の今日であまり会いたい相手ではなかった。ゼルだから、ではない。昨日あの場にいた誰とも、今は話をするのが億劫だった。向こうはまだこちらに気付いていない。悪いけれど、黙ってそうっと横を通り過ぎてしまおう。そんなことを考えていた頃合いである。
ゼルの目は、こちらには向けられない。ティリルの目には、細い路地の奥に向けられている彼の横顔が見えている。何やら話をしている。奥に誰かがいるようだ。それがミスティにしろマノンにしろ、あるいは他の誰かにしろ、やはり挨拶をしたいとは思えない。
そう思っていたティリルだったが、一瞬路地から飛び出し視界に入った相手の、顔が記憶の片隅に引っ掛かり、反射的に身を隠した。通りの手前、建物の合間にある細い隙間。誰かに見つかったら、なぜそんなところにいるのと問われたら、生半のごまかしが利くような場所ではなかったが、さりとて向こう側のゼル達に見つかることもまずないだろう。
そこでティリルはもう一人の男の顔を見た。じっと身を顰めていたら、数瞬後にもう一度顔を見せたその誰か。短い黒髪をオールバックに固め、額を広く示した青年で、何やらゼルと言い争っているのか険しい表情をしていたが、それでもどこか緊迫感に欠け、緩んだ印象を受ける。
誰だったろう。見たことがある気がするのだが。
単純にゼルと一緒にいたところを、どこかで見かけただけかもしれない。
悩んでいるうちに、彼らは姿を消した。結局ゼルがオールバックの青年を押しやり、そのまま路地裏へと行ってしまったらしい。二人して建物の隙間に吸い込まれるようにして入って行き、そのまま出てこなくなってしまった。
どうしようか。ティリルもまた、そこから出ていくタイミングを逸してしまった。何となく、覗き見をしていたという気まずさがある。先程以上に、彼らに見つかりたくない。路地裏に姿を消した彼らだったが、ここからではもう行ってしまったのか、まだ入ってすぐのところで言い争いを続けているのか判別できないのだ。
「あら、ゼーランドさん」
出ていく頃合いを見計らい、もうしばらく身を潜めていようと背中を丸めた矢先、背後から名を呼ばれた。
ひやっ、と悲鳴が零れた。
振り向くと、意外な顔。そこにはアイントが立っていた。
「……どうか、されました? そんなところで」
「あ、や、ええと……」
紡ぐ言葉が見つからない。何せ「なぜ」と問われても、生半のごまかしが利くような立ち位置ではなかったのだ。いろいろな言い訳がぐるぐると頭の中を駆け回る。
「お声掛けして、御迷惑でした?」
溜息交じりに小首を曲げるアイント。諦観に、近いか。なぜそんな表情をされるのかまるでわからなかったが、とりあえず誤解は解いておきたかった。
何をごまかしても、不信感は拭えない。ある程度正直に話す方が誠実だ。
「いえ、その――。今あまり顔を合わせたくない知り合いがさっきまでその先にいたもので。ええと、隠れていたというか……」
「顔を合わせたくない知り合い、ですか」
アイントは二三頷きながら、値踏みするように怪訝な目付きでティリルの全身を睨め回した。おっとりとした話し口。こちらまで眠たくなるような、細い目。まるでボーイッシュな印象は想起させないこざっぱりとしたショートカットと、高い身長。初めて見る私服は、萌黄色のワンピースにピンクのケープを羽織っている。
「それって、ラヴェンナさんのことですか?」
「え、えっ? いえ、違いますよっ!」
俯き加減の高身長に、上目遣いにじろりと睨まれ、思わず慌てる。
もちろんもしアルセステが視界に入ったら、ゼルとは違って迷う余地もなく踵を返し別の道へ逃げ込んだだろう。そしてそれはアイントでも同じ。三人の中では比較的印象の柔らかい彼女だったが、近付きたくないのは同じだった。
ただその割には、今こうして言葉を交わしていることに嫌悪や辟易はなかった。自分でも意外だ。




