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遙かなるシアラ・バドヴィアの軌跡  作者: 乾 隆文
第一章 第九節 闇曜日に街へ出て
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1-9-1.港







 翌日は闇曜日だった。


 フォルスタとも、ラクナグとも顔を合わせる必要がない。


 ミスティとは同室なので朝の挨拶程度のことはするが、出かけてしまえば夕方までは自由だ。


 少し、誰にも会わずに考える時間がほしい。そう思って、珍しくティリルは学校の外に出ることにした。


 街並みを歩くのは、ティリルには珍しいことだった。週に一度の闇曜日は、全ての課程が設定されていない。教員たちにとっても休養日と定められているこの日。もちろん個別の研究を進めていけない道理はないが、余程特別な事情でもなければ、学生たちも羽を伸ばすのが常である。


 全寮制の学院だが、生活範囲がその敷地内だけでもまた、見聞が狭まってしまう。あくまで自己責任の範囲で、一日サリアの街へ繰り出し、王立図書館や博物館、たまには公園やスタディオンで時を過ごす経験を積むことも、認められていた。


 ティリルも何度か過ごした闇曜日。ミスティに案内された図書館と、西街道沿いに建つ貸本屋くらいには何度か通ったが、それ以外の場所に積極的に向かうことはしなかった。だが今日くらいは、図書館よりももっと人のいない静かな場所で、ただ風を感じて過ごしたい。そんなことを、ふと思ったのだ。


 幸い天気は良い。どこへ行こうか。それほど選択肢も多くない中、自問した結果「海が見たい」と結論した。南へ進むと、内海に面した港があると聞いた。そちらへ行ってみよう。後先も考えず、ティリルはそちらへと足を向けた。


 歩いてみると、港はあっという間だった。


 何となく、嗅ぎ慣れない塩っぽい匂いが鼻にまとわりつき始めたな、と思うや、次の瞬間には青い海が目の前一面に広がっていた。


「うわぁ……」


 堤のすぐ手前にまで歩を進め、目を輝かせる。


 そういえば、生涯初めての海だった。


 本で読み、知ったような気になっていた海の印象と、だいぶ違う。木造の桟橋が二本、三本、港から伸びて、立派な帆船を何隻も舫いでいる。その向こう、青く伸びる海原は、しかし視界の届く限り両端を陸地に挟まれている。


 思っていたより、聞いていたものより、目の前の海は随分と狭い。そのことが逆に、世界はなんと広いのだと、ティリルに実感させた。


 知っている世界は、自分が思っている以上にずっと狭いというのに。ぼんやりと立ち尽くし、青と白のきらめきにしばし目を奪われる。そして、すぐ脇にあった小さな木箱に意識もせず腰を下ろし、両の手を膝の上に添えた。想いを馳せるのは、昨日の出来事。自分の師が、自分の母と同門であったと、昨日初めて知った。そのことの何に自分がショックを受けているのかがまるでわからず、混乱を落ち着けるために一人になった。


 今日は闇曜日。


 フォルスタともダインとも会う必要がない。出かけてしまえばミスティからも自由だ。


 知っている人たちと、関わりたくなかった。彼らの言葉を聞いたら、自分の困惑が濁ってしまいそうだったから。自分が何に戸惑っているのか、自分でよくわかっていないことが、一番ティリルを混乱させていた。


 自分だけ、知らなかった。教えてもらえなかった。そんな幼稚な思いで拗ねているわけではないと思う。聞こうと思えば聞けた。「先生は、バドヴィア本人と直接会ったことはありますか?」。それだけの質問を、自分からしなかった。学生の立場で、むしろ怠慢なのは自分だ。同じ質問を、ネスティロイに対してではあるが、リーラは迷わずしていた。それだけで、自分の方が劣っているのではないか? リーラの方がずっと、探究心に溢れているのではなかっただろうか。


 そんな劣等感が、自分をここまで陰鬱とさせるのか。


 たったそれだけのことが。


 心の中で、その解は全く腑に落ちていこうとしない。もちろんそのことも理由ではある。だが、それだけ、ではない。では他には何が……?


 空を見上げる。まだまだ日は高くない。入学した頃に比べ、随分日は南の空を走るようになってきた。気候から鑑みても、まだまだ朝の空。潮風も穏やかで暖かだ。


 自分だけ聞かされていなかったという事実に拗ねているわけではない。――はずなのだが、ではなぜ、フォルスタと顔を合わせるのが嫌なのだろう。自分の本心がわからず、困惑が続く。


 一番遠い堤から、帆船が一隻、鐘を鳴らしながら出航して行く。今日は凪。穏やかな海を帆を膨らませて進んでいく二本マストの船の上には、一級の魔法使が乗っているのだろう。都の船は魔法使の風を受けて海を走る、と何かで読んだことがある。


 船が残していく二本の白波の線を、ぼんやりと目で追いかけながら、ふと呟いた。


「私もどこか、行っちゃいたいなあ……」


 その響きは、まるで自分の外から聞こえてきたかのように、とても蟲惑的にティリルの心に響いた。そんなことはできない、とわかっているからこそ、尚のことその提案が輝いて聞こえる。


 ここではないどこか。その響きに、なぜこんなにも心が躍るのだろう。


 ふと、目の前を、男性が一人過ぎった。忙しそうに、すぐ近くの船へ、荷の積み込みの指示をしている。迷惑だろうかと不安になりながら、ティリルは怖ず怖ずと声をかけてみた。この船はどこに行くのでしょうか。浅黒い肌の男性は、しかし案外優しい口調で教えてくれた。


「ダザルトだよ。世界一のマーケットがあってな。そこで手に入らないモノはねぇって言われてるくらいのな」


 どぐん、と、心臓が跳ねた。


 思いがけない名前だった。まさかこんな、手を伸ばせばすぐ届きそうな距離に、そこへ行く手段(みち)があったなんて。


 突然黙り込んでしまったティリルを、壮年は怪訝な顔で見つめ、おい、大丈夫か?と二三声をかけてくれていたが、やがて諦め自分の仕事へ戻っていった。その様子を、視界にはちゃんと捉えていたのだが、反応することはまるでできなかった。


 行きたい。


 うっそりと、しかし確かに、ティリルは心に欲望を抱いた。


 学院の全てなど投げ出して、一切のしがらみから目を背け、この海を渡っていってしまいたい。そうしたらひょっとして、会えるのではないか。会って、あの日以来の彼の笑顔を目にすることができるのではないか――。


 詮無いことを考え、深々と溜息をつく。その場に蹲り、膝を抱えて顔を埋め、目の先だけ僅かに、遠く海の先に向ける。今にも涙が出てきそうで、堪らなかった。


 もし本当にそれをしてしまったとして、どんな顔を向けられるというのか。自分の腕を磨こうと旅路についた彼が、笑うか、貶すか。あるいは歯牙にもかけないか……。


 自分に胸を張れなければ、合わせる顔だってない。当り前の結論に、遠回りしなければ辿り着けなくなっている今の自分が、情けなかった。




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