1-8-1.リーラ強襲
ある日のこと。昼休みが終わり、午後の授業が終わる。
このところの出来事が目まぐるしく重ったるく、ティリルはこのところ、授業への集中力が維持できていない。今終わった三限の王国史概論もぼんやりと聞き流してしまい、ノートを見返しても聞いた話をほとんど思い返せなかった。しまったな、フォルスタ師に怒られるな。うっすらと考えながら、しかしそのこと自体もどうでもよくも思っている自分がいた。
「やっと見つけた! ゼーランド先輩!」
ふと、声をかけられる。
びっくりして、肩を震わせてから勢いよく振り向いた。あまりの驚きぶりに、声の主も少し目を見開いてぽかんとこちらを見つめているようだった。
「あ、――ああ、ええと、あなたは……」
「あっと、リーラ・レイデンです。覚えてませんか?」
少し淋しそうに、表情を曇らせる。初等科の制服を着た。枯草色のショートヘアの少女。忘れたわけではない。忘れられる程度のインパクトではなかった。ただ、虚を突かれてとっさに名前が出てこなかっただけだ。
「いえ。……ごめんなさい、そうじゃないんです。ぼんやりしていて、ちょっとすぐ反応できなくて……」そう、言い訳した。「えっと、レイデンさん。何かご用ですか?」
「あ、私のことはリーラって呼んでください! レイデンさんなんて気を使ってもらうほど大した奴じゃないんで!」
教室中に響き渡るような大きな声で、リーラが胸を張った。
面積と座席数のある今日の教室。ちらほら学生たちが教室を移動し始めた頃合。人の群れにはちょうど隙間ができ始め、元気な少女の大きな声が行き届くには持ってこいの状況だった。
「いや、その、えっと、じゃ、じゃあリーラさん……」
「はい! なんでしょう!」またはきはきとした声で答える、リーラ。
「ですから、その、何か私にご用ですか?」
「あ、えっと、はい! ……いえその、何か用事ってわけじゃないんですけど。ゼーランド先輩のことを見つけたんで、嬉しくて声をかけちゃいました」
御迷惑でしたか……? 少し不安そうに、眉をへの字に曲げながら小首を傾げるリーラ。迷惑、なんてことはないけれど。ティリルは返答の言葉を見失い、少し困惑した。
アルセステ達と話をしてから一週間ちょっと。周囲からの嫌がらせは完全になくなっていた。リーラが自分に声をかけてきても、彼女がとばっちりを食らうようなことはないだろう。だが相変わらず周囲の視線はまるでティリルを警戒するようにこちらに向けられており、必然、ティリルに話しかけてきた時点で、リーラもまた注視の的になってしまっている。そのこともまた、ティリルは敏感に勘付いていた。
迷惑ではない。むしろ、こちらが彼女に迷惑をかけてしまうのではないか――。
「あ、ありがとございます。それじゃ、えっと、場所を移しましょうか」
提案する。その言葉がどれ程予想外だったのか。リーラはぱあっと、顔を崩し声を飛び上がらせた。
「は、はい! ぜひ!」
何をそんなに喜んでいるのか、ティリルにはわからなかった。ただこの居心地の悪い教室から早く抜け出したい。思いは、その一心だった。
鞄をひょいと持ち上げ、早足で出口へ向かう。
「先輩? 何か急いでるんですか?」
リーラに訊ねられる。さすがに、この足早さは不審だったか。
「え、い、いえ? なんでそんなこと?」
「急いでないんだったら、もう少しゆっくり歩いても……」
「そうですか? これくらい普通ですよ?」
苦しいごまかしでリーラの疑念を黙殺し、彼女の手を引いて廊下を吹き抜ける。
エル・ラツィアへ向かおうと思った。昼時はとっくに過ぎたと言え、大衆食堂の方だと常に時間を潰す学生たちの姿が絶えない。ラツィアだったら、食事時でさえ人混みは生まれない。周囲の目を気にせずに時間を過ごすには、あちらの方が相応しい。
「ところで……、リーラさんはどうして、私なんかに声をかけてくださったんです?」
人っ気のある廊下を抜けた。校舎の出口に向かう通路で、我慢できずにティリルが口にした。お茶でも飲みながら話す内容、にしては和やかさに欠ける気がしたのだ。
「え、私なんかって?」
「その、だって、見ず知らずの間柄だったじゃないですか、この間まで。なのに、声をかけてきてくださったし、今日だってわざわざ教室を探して下さってたみたいで……」
「言いませんでしたっけ? ゼーランド先輩が、シアラ・バドヴィアの娘君だって聞いたからですよ。前にも言ったと思いますけど、私、心からバドヴィアを尊敬してるんです! エネア戦争で活躍したっていうバドヴィアの話を聞いて、世界一の魔法使にすっかり憧れちゃって。だから、私先輩とお知り合いになれて本当に嬉しいんですよ!」
「それは聞きました。でも、私はバドヴィアの娘ですけど、バドヴィアじゃあないんですよ? 全然別人なのに、そんな風に言ってもらっても私……」
「えっと、それはですね――」
リーラが答えようとしたのは、校舎を出てほんの少し歩いたところだった。
背後から声をかけられ、逸る足を慄きながら止めた。
「どしたのさ、そんなに急いで。どこか行くところ?」
振り向き、安堵する。校舎と校舎をつなぐ道。交差した横道から駆け寄ってきたのは、ミスティだった。一緒に、ゼルがいる。もう一人見知らぬ女性もいる。栗の皮の色をした癖のない髪を、肩口に切り揃えた綺麗なセミロングヘア。顔立ちはおっとりとしていて、閉じているのかと思う程に細い垂れ目、小さな口許は、ミスティと異なった温和な性格を予想させる。
「あれ、そっちは、ええと……、リーラ・レイデンさん、だっけ?」
「え、何で私のこと……?」
「あん? 覚えてないの? あなたがティリルんとこに初めて来た時、私とゼルも横にいたんだけど」
「え、あ、ああーっ!」
右の人差し指で堂々とミスティを指差し、リーラが大声を上げる。
「何よ失礼な奴ね。どうせ、憧れのバドヴィアの娘に会えて舞い上がっちゃって、私たちのことなんか全く眼中に入らなかったってとこなんでしょ」
「あ、や、その、えっと、……えへへ」
「ったく」
腕組みをして溜息を突くミスティ。ゼルが背後で苦笑いを浮かべながら、「しょうがないだろうよ。あのとき俺ら自己紹介しなかったと思うし」と、ミスティの肩を叩いて窘める。自己紹介も、確かする暇がなかっただけだったと思うけど。ティリルは心の中で呟いた。




