1-7-6.交渉の結論
アルセステの言葉がラクナグを揺さぶったのだろうか。だとすれば、あまり嬉しくない。ひょっとして、師の補講を彼女たちと並んで受けることになったら。そうなったら、自分はどうなってしまうのだろうか、はっきり言って、想像したくもない。
くるぅ、とかわいらしい音が鳴る。ルートがお腹を摩りながら、昼休み終わっちゃうよぉ、と声を顰めてぼやいている。
「なるほど。お前の言葉の真意は理解した。だがやはり、お前は私の言葉の真意を理解していない。私は謙遜しているわけでも自己評価を誤っているわけでもない。私は応用行使学については素人だ。精霊魔法学もウェンデ正法学も、バドヴィア魔法学についても私を置いて専門としている研究者が他にいる。そして、私は基礎魔法学の専門家だ。基礎について私は誰よりも効果的に緻密に、学生に教えることができると自負している」
「つまり、私どもの望むような補講はして頂けないということですか?」
「そう受け取ってもらって構わない。お前たちは元々魔法行使の力は高かった。授業をしっかりとこなしていれば、基礎固めには何の不安もない」
腕組みの姿勢で、厳然と言ってのけるラクナグ。だが、足の爪先が何度も持ち上がっていたり、組んだ腕の指先がパタパタと動いていたり、師にしては珍しい『落ち着きの無さ』も実はそこにあった。はらはらと胸を小さく叩かせるティリル。まだ尚口許の笑みを薄めないアルセステの表情が、不安を煽って堪らない。
「では、体験という形ではいかがでしょう」
「――なに?」
「私たちの望む形での補講が不可能でしたら、それとは違う可能な形の補講を体験させて頂く。その形を私たちが受けたい、受けて得るものがあると感じたら、私たちも受講させて頂く。感じるものがなければ、先生の仰るように他の先生を探す。そういうのはいかがですか?」
「……可能な形での、とは?」
「もちろん、ゼーランドさんの受けていらっしゃる個別補講のことで構いません。差し当たって、その形でしたら開講が可能なんですよね?」
「何度も言っているが、ゼーランドに行っている補講はお前達には――」
「それを、私たち自身に判断させてください、と申し上げているのです。先生のご負担にならないように、まず私たちが体験させて頂く補講も、どうでしょう、ゼーランドさんが受けていらっしゃる補講を見学させて頂く、という形では。それでしたら、余計な時間をお取り頂かなくてすむかと思うのですが」
アルセステの微笑みと共に、ラクナグの沈黙が生まれる。その沈黙の意味が、ティリルにもわかる。当惑。アルセステの言葉を断る道筋を見失い、どうしたものかと言葉を紡ぎあぐねている。とても珍しい光景だが、ラクナグが黙っている意味はつまりそういうことらしい。
ちらりと、ラクナグがこちらに目を向けた。一瞬の、半分もあったかどうかわからない、だが確かにほんの僅かな間、ティリルにはラクナグの感情が向けられたのだ。
異を唱える余地は、自分にはない。アルセステ達が自分に伝言を頼んだことがおかしかったように、今この場で生じたアルセステの問いへの答えに、ティリルの感情が関与することもまた、不自然なのだ。
観念したように、ラクナグが一つ溜息をついた。
「わかった。それは確かにお前たちの権利だ。そこまでしてお前たちが私の補講を受けたいと言うのなら、こちらもそれに応えよう」
「ありがとうございます! とても嬉しいです」
アルセステが破顔一笑、腰を曲げて深々と頭を垂れた。後ろのルートとアイントも、それに連なる。ラクナグに見せた旋毛が、まるで横目にこちらを見ながら、ほくそ笑んでいるように映った。背筋に鳥肌が立った。
結局こうなるのか、とティリルは深く溜息をつく。これから、ラクナグの補習はどうなってしまうのか。不安を数えればきりがない。せめてラクナグの視線が、三人の動向を防ぐよう見張ってくれるのを祈るばかりだ。
アルセステ達と並んで受けるラクナグ師の補講は、一週間経ってからだった。
彼女たちの気まぐれで、やはり参加しないと言い出せばいい。正直期待していたが、望み薄だということもわかっていた。一週間、ティリルへの嫌がらせはすっかり無くなっていた。向けられる視線も、確実に減っていた。アルセステ達が約束を守ってくれているのだ。それが、嫌がらせ自体が彼女たちに端を発しているという状況証拠になるとしても、彼女たちは約束は守っている。何の為かと問えば、当然、ティリルにも約束を守らせる為。彼女たちから、それを反故にするとは到底思えなかった。
案の定、風曜日の実習の後、三人はティリルが立ち上がる前にその席の前に立ち、「さ、行きましょう」と微笑んで寄越した。
暗澹たる心象だったが、それを表情に出すわけにもゆかぬ。精一杯愛想笑いを浮かべ、両足に鉛の固まりを付けたかのような鈍さを感じながら、彼らの後ろについて歩いた。
「楽しみだわ、ゼーランドさん。私たち、ラクナグ先生のことをとても尊敬しているの。あなたが一人占めしてきた先生の補講、参加させてもらえて本当に嬉しい」
その言葉が本当だと信じられたら、少しは気が楽だったろう。アルセステは恐らくわざと、そうは聞こえないような言い方をした。ルートのにやにや顔が、挽き肉焼きに付け合わされるニンジンのバター炒めのように、その声音の甘ったるさをいや増した。
研究室では、ラクナグが待ち構えていた。
珍しく、若干引き攣ったような顔をしている。恐らく、最初に出会った頃のティリルでは見分けがつかなかっただろう、ほんの微かな表情の変化。
師も、アルセステ達のことは苦手なのだろうか。狭い研究室に用意してくれていた小さい木の椅子四つ、そのうちの一番外側にあるものに、腰掛けながら思った。
「何をしている、お前は一番前だ」
師に声をかけられ、え、と目を丸くする。アルセステ達の視線が集まる。
「アルセステ達は見学だ。あくまで、この補講は魔法行使力が未熟なお前のためのものだ」
厳しく言って席次を決める、その勢いはいつものラクナグだった。アルセステ達も文句は言わない。アイントなどは、その通りだと静かに頷きかけてきた。
補講の内容はいつも通りだ。ティリルがこなすのは、実習の授業よりもずっと難易度の低い魔法実践。例えば、今日の召喚魔法実習では指先の大きさ程度の小さな光を呼び出し、それを当てて縄の先に火種を起こすというものだった。ティリルが出来たのは、小さな光で縄の先に微かな焦げ跡を付ける程度。それを元にラクナグは補講の内容を検討する。




