1-7-5.アルセステとラクナグの交渉
「それでお前は、私にそんな話を持ちかけたのか」
ラクナグ師が溜息をつくのは珍しい。できないことを叱責したり、厳格に是か非かを詰問することが多い師は、一見あらゆる面に厳しく人当たりがきつい印象を与え勝ちだ。だが実は、誰かに対して呆れたりすることはあまりない。是か非かは明確にしたがるが、はっきり是と、あるいは非と意見すれば、その意見自体は尊重してくれるのだ。
自分の発言は、随分珍しいラクナグの表情を引き出してしまったかもしれない。話をしながらそんなことを思った。
「ええ、その、一応約束は約束ですので……」
「その口振りだと、お前の発言のナンセンスさは自覚しているようだな」
ええ、それは……。弱々しくも、しかし腹の裡には確かにあった自分の本音を、ラクナグに示す。
アルセステにも一応は断った。決めるのは自分のすることではないと。だがそれ以上、師が呆れている部分までもちゃんと理解しているつもりでもある。
「全く。面倒な奴だな。本当なら本人に言わせろと一蹴するところだ」
もう一度、深い深い溜息。ええ、まぁ、そうですよね、と一瞬気が重くなったが、ラクナグはさらに言葉を続けた。
「それで収まるような話でもないだろうな。恐らく、アルセステ達も難癖をつけようとお前の隙を探っていることだろう。私が直接言ってやろうか」
「え、本当ですか?」
聞き返す声が大きくなってしまった。まさかラクナグにそんなことを言ってもらえるとは思わなかった。とはいえ、あのラクナグ先生がまさかそんなこと!……などと思ったことをそのまま口に出せるほどの距離の近さになったわけでもないだろう。
「その方が話が早いだろう。では次の実習の時間……、まで待つと間が空くな。明日の昼休みにでも、連中を探し出すとするか」
「あ、ありがとうございます! 本当に助かります!」
深々と頭を下げる。ラクナグに一緒に来てもらえるなど、こんなに気が楽になることはない。望外の展開に、口許が綻んでしまうのを抑えきれなかった。
翌日の昼休み。アルセステ達を探しに、ラクナグはティリルを同道した。
師は学生たちのスケジュールを把握している。彼らが出席している前の授業が確認できたことで、目当ての人物はすぐに見つけることができた。教室から、三人を呼び出し、適当な小講義室に入る。食堂に行こうと思っていたのに、とルートは口を尖らせていたが、アルセステがその態度を柔らかく窘めていた。
「お前たちが、私の補講を希望している、と聞いたが」
「はい。その通りです。ラクナグ先生は魔法行使の基礎について第一線の魔法使たちと比肩する程の方だと、ご評判を伺っております。私どもも週に二つの実習を受講しておりますが、やはりもっと深く、先生のご指導を頂きたく考えておりました」
聞く者が、ともすれば不快な気分さえ抱いてしまいそうなほど、慇懃な口調で受け答えするアルセステ。背後ではルートがにやにやと笑い、アイントが静かに微笑んで、アルセステの言葉を肯定していた。
「ふむ? だがなぜゼーランドに伝言を預けた? 希望があるなら自分たちの口で直接言いに来ればいいだろう」
「ラクナグ先生は、学生の個別補講を受けることはほとんどないと伺いました。実際、私の存ずる限りで、先生の補講を受けたという学生は、ゼーランドさんを除いて居りません。ゼーランドさんは特別なのだろうと考え、口添えをお願いした次第です」
そうですよね? 微笑みながらティリルを見る。同意を求める口振り。いや、もう一歩進めて同意を強制してくる口振りだ。ティリルより先に、ラクナグが露骨に、眉を顰めた。
「私は、個別補講を行わないわけではない。必要がある学生には行う。原則的には私の教える内容は週に二度の実習を受講していれば十分なはずだ。ゼーランドに補講を行っているのは、途中編入という環境の中、その実習を受講するのに不足しているものがあると判断したからだ。お前たちは普段の授業のカリキュラムは問題なくこなせていると思うが、その上個別補講を希望する理由は?」
「当然、より一層魔法行使への造詣を深めることです。先生は、大学院の教職者である以前に、名のある魔法使だと伺っております。授業で教えて下さっている以上の様々な魔法を扱うことができる、と。ぜひ、そういったものを教えて頂きたいと思いまして」
「買い被りだな。私はあくまで基礎実技の講師に過ぎない。私の授業もまた、行使学を専攻する学生たちに魔法使としての魔法行使法の基礎を理解させるためのものであり、基盤が固まった学生にそれぞれの適性に合った他の行使学教員を紹介するところまでが目的だ。私の元に長らく留まろうなどという学生は今までにいないし、そうしたいという学生がいたとしても私はさっさと追い出すことにしている」
首から下を微動だにさせず、ただ目許と口のみを動かして淡々と語るラクナグ。まるで瞬きすらを自らに禁じたかのような毅然としたその様子。授業中でも課外でも変わらない、いつもの師の態度だった。
いつも対峙している自分は、それだけで言葉を見失いそうになる。それを受けて、なお自分を見失わず平然とうすら笑いを浮かべているアルセステ達のことを、またティリルはすごいなと感心しながら見ていた。
「不思議なことを仰いますね。先生は、研究者であると同時に教職者としてこの大学院に赴任しているはず。教えを請うている学生を無碍にするなど、そのような心得違いをなさるとは思えませんね」
「……心得違い、だと?」
「だってそうでしょう? 一学生である私たちよりも多くの物事を知っている。魔法行使の才もお持ちです。そしてそれを学生たちに分け与えるのがお役目であるはずなのに、断られるなんて私には解せません。私が一人前の魔法使となった暁には、頭を垂れる学生には一杯のお茶と書物を与えよと、我が父オルターヴ・アルセステは私に教えました」
姿勢だけは慎ましく、両手を身体の前で揃えて微笑むアルセステ。なんとも不自然な言い回し。なぜそんな言い方をするのかと、ティリルは小さく首を捻った。
言われたラクナグはその意図がわかっているのか。珍しく眉間に皺を寄せ、複雑な表情を見せている、まさか、師がアルセステ達に言い包められるとは欠片も思っていないのだが、さて結果的にはどう転ぶのか。
扉の外の喧騒が、どこか遠い世界のもののように感じる。ティリルはふと、異世界は扉の外なのか内の方なのか、わからなくなった。
「……繰り返すが、私はお前たち学生が、一端の魔法使になるための魔法行使の基礎として、十分なだけの情報量と経験値の密度を実習の授業に詰め込んでいるつもりだ。補講はあくまでその実習の段階に到達していなかった編入生のために行っているものに過ぎない。私の授業を理解して尚先に進みたいと思うなら、『より深く基礎を学ぶ』などと馬鹿げた行為に固執しないで、別の講師たちの下で応用行使学を学び始めるがいい。
私の話を理解していれば、私のことを心得違いなどと表現することはないはずだが。お前たちは、私が面倒事を避けるためにお前たちの個別補講を拒んでいる、とでも受け取っているのか?」
「まさかそのような。そもそもそのような先生だと少しでも考えていたら、こんなにも先生の元に執着しようとは思いません。心得違い、とは確かに言葉が過ぎたかもしれません。そのことについては謝罪申し上げます。ただ、私どもは、他の先生ではなくラクナグ先生に『応用行使学』を教えて頂きたいと考えているのです。
心得違いと表現してしまったのはその点につきまして。先生がご自身のことを『基礎学をのみ受け持つ講師』であると線を引き、応用学は他の講師の方に任せようとするその点を、言葉足らずもそのように申し上げてしまいました。先生ほどの魔法の才をお持ちで、先生に師事したいと希望する学生がいるのですから、御自身を過小評価して他の講師の方を薦めるのは如何かと」
ふ……む。初めて、ラクナグが口許を歪めた。




