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遙かなるシアラ・バドヴィアの軌跡  作者: 乾 隆文
第一章 第七節 ラクナグ師の補講
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1-7-4.アルセステとの交渉







「もちろんタダではないわ」ああ、そういう話か。マヒした頭が急速に解凍されていく。「代償は払って頂きます。でもそれは、あなたにとっては大した代償ではないと思いますわ。いかがかしら。破格の条件だと思いますけど」


 勿体ぶって言葉を止め、ラヴェンナは前髪を掻きあげた。次のティリルの発言を、一つに絞るための話術か。背筋を震わせながらも、ペースを完全に握られないよう、ティリルは神経をアルセステの言葉の隅々に張り巡らせた。


「代償、っていうのはなんのことですか?」


「ああ、ごめんなさい。言うのを忘れました。


 お願いしたいのは、簡単なこと。私たちを、ラクナグ先生に紹介してほしいのです」


「え、紹介……?」


 奇妙なことを言う。緊張が、純粋な疑念に解けていく。


「で、でも、あなたたちは私よりも長くラクナグ先生の実習に出ていたのではないんですか? 先生もあなたたちのことはご存知でしたし、今さら私が紹介することなんて」


「ただ引き合わせてほしいと言っているわけじゃないの。ゼーランドさん、あなた、課外で先生に補講を見てもらっているでしょう?」


「あ、は、はい」


「あれ、とても珍しいことなのよ。師は時間に厳格なことで有名だから。大学に対して契約した時間、契約した内容についての授業はしっかりと行う方だけど、時間外の補講などは一切行わない方、というのが長い間の師の評判だったの。だから、あなたが受けている補講はとても珍しくて、有り難いものなのよ」


 両手を腰に当て、胸を張って主張するアルセステ。自分の幸運を自覚しなさいと、言外に示してきているようだった。


「そんな有り難い補講を、あなただけが受けているなんて不公平だと思わない? その幸運を独り占めするなんて、よくないことよねえ? だから、お願いしたいの。私たちも、あなたと並んで師の補講を受けられるようにしてほしいのよ」


 えぇ?という驚嘆の声は、どうにか腹の中にしまいこんでおくことができた。だが感情の全てを隠し果せたかは不安なところ。僅か眉を動かしてしまったのは自覚しているが、さてその微動がアルセステに見つかっているのかどうか。


 どの道、居丈高に胸を張っているアルセステなら、最初からティリルの嫌がる顔を予想して来たに違いない。見極められたかどうかは、問題ではない。


「ええと、それは、その……」


「まさか、嫌だなんて仰らないわよね? 一人だけ特別扱いを受けて、あなただって居心地が悪いでしょ? ね? それにタダとは言ってない。その代わりに、あなたに害成す他の学生たちから、あなたを守ってあげようって言うのだから、断る理由なんてないと思うんだけれど?」


「あ、あの、その……」


 高圧的にされると、ティリルは言葉を見失っていく。アルセステは、恐らくそれを見抜いている。だから、少しずつ語る口調を変化させ、いつの間にか話を「してほしい」から「してあげる」に書き換えた。


 いつしか、廊下から人通りがなくなった。次の授業の開始時刻が迫っているからか。しかし鐘はまだ鳴る気配を表さない。休憩時間の喧騒が、酷く遠いところから聞こえてくる、


 心が萎縮して行く中で、ティリルはどうにか、汗塗れの右手をぎゅっと握り続けていた。


「え、えっと、その……、ご、ご紹介するのはできると思います。た、ただ、補講の開催を受けるかどうかは私が決めることではないので……。お約束はできませんけれど」


「もちろんよ。それで充分だわ」


 にっこりと、アルセステは満面の笑み。ティリルの方につかつかと近付いてきて、右手を差し出し握手を求めた。


「では、交渉は成立したわね。よろしくね、ゼーランドさん」


 語る言葉は、甘ったるくも危うかしく、その手を握り返すのを躊躇させるに十分な音色だった。伸ばしかけた右手を、躍らせるようにひゅっと引っ込めかけ、アルセステの顔をおどおどと、上目遣いに覗きこむ。


「あ、あの――」


「あら、なあに?」


「以前あなた達は、『性格が腐った嘘吐きとは仲良くなれない』って仰っていたと思うんですけど、その、どうして今回はこんなお話を?」


 刹那、アルセステの顔から表情が消えた。ほんの一瞬だった。次の瞬間には、クモの巣の横糸のような、さらにねっとりとした微笑みを口許に浮かべる。目は、蜂蜜の滴のように重ったるかった。


「ゼーランドさんは見かけによらず、後を引く性格なのね。あの時の私のセリフをそのまま覚えているなんて。その質問に答えるならそうね、今でも私はそう思っているけれど、仲良くするのと利害を合わせて契約を結ぶのとでは違うでしょう? そういうことだと思うわ」


「……私のことを、まだ最低の嘘吐きだと思ってはいるんですね」


「にゃはは、当然じゃん! てか思ってるって言うか、実際大ウソ吐いてるんだから」


 答えは背後のルートから。両手を頭の後ろに組んで、まるで人の冗談を笑い飛ばすような軽快な調子で言ってのけた。


 アルセステも否定はしない。否定も肯定もしてはいないが、否定しないことのほうが全てで、残りはまやかしに違いなかった。


「そう思われているから、私たちとは契約はしない、と?」


「…………」


 しばし沈黙。


 関わらないのが吉だとは思った。ラクナグ師への紹介など、師に眉を顰められるのが関の山だし、いじめ行為自体は十中八九アルセステ達の指示なのだから、やるもやめるも彼女たちの気分次第。


 ではなぜその手を握り返そうと思ったかと言えば。――戦う意志が自分にあるとアルセステに示したかったから、というのが、言葉にしたらいちばん近いだろうか。会ったことのない相手なので自分の中にある虚像でしかないのだが、母シアラなら、ここで逃げたりはしないはず。不意にそう思ってしまったのだ。


「――約束は、守ってくださいね」


「ええ、もちろん。私も、今回はあなたが嘘をつかないと信じているわ」


 握った右手に力を込めて、返事の代わりにした。


 心臓の音が、学校中に響き渡りそうだった。動揺を、腕の震えを必死に押し隠した。くす、と一つ、アルセステが口許で嗤う。まるで、全て見透かしているかのように。


 では、そういうことで。アルセステが手を振った。追従するルートとアイント。そして、鐘が鳴った。


 次の授業に、ティリルも移動しなければならない。だが、足が、身体が動かない。結局次の授業に遅刻してしまったティリルは、教員から叱責を食らい、他の受講生のひそやかな笑い声を聞かされる羽目になったのだった。




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