1-7-3.周囲の思いやりを糧に
そしてもう一つ、一際落ち込む出来事があった日のこと。
今までの授業の記録を詰め込んだティリルのノートが、ほんの少し席から離れている間に、誰かに破られ、落書きされて読めなくなってしまっていたのだ。
こういう考え方自体好きではなかったが、先の折られたペンも、ノートも、新しいものを買うだけの金銭くらいは王家から奨学金として与えられていた。だが今まで書いてきた講義の記録は、取り戻せるものではない。いよいよ実害のある嫌がらせが起き始めたこと、またその実害そのものによって、ティリルは今までになく落胆し、困惑した。軽く青褪め、肩を震わせ、次回からどうしたらいいのだろうと立ち竦んで足許を見つめた。
どうしようもなく、フォルスタ師の研究室でそのことを白状した。今まで勉強してきたことが、一遍に無駄になってしまったかもしれません。震える声で、そう報告した。
フォルスタの反応が、怖かった。何と言われるのか全く予想が付かない。ひょっとしたら今までと同様、それがどうしたと一瞥ももらえないかもしれない。それくらい、師は自分に興味がないのかもしれない……。
フォルスタは、徐に顔を上げた。まるで鳩がスズメを羨んでいるのを見るかのような、つまらないものを見るような憮然とした表情で、ティリルを見ていた。そして、机の上に積み上がっていた書物の一山から何か――どうやら新しいノートのようだ――を取りだし、広げて何やらを書き始めた。
「あ、あの、何を書いていらっしゃるんですか?」
怖ず怖ずと聞いてみるが、返事はない。黙って師が書き終わるのを待つべきかと思ったが、耐え切れず、つい後ろに回って覗きこんでしまう。
そこには、ティリルが受けた授業で、ティリルが書き残してきた詳細な記録が、ほぼそのままの形で再現されようとしていた。
「え、あ、あの、これ――」
「毎日お前の学習状況を確認し、ノートを見てきたんだ。一言一句とはいかないだろうが、大体お前が書き記してきたことくらい頭に入っている」
衝撃的だった。この、一見まるで自分に興味を持ってくれていない教師が、実際にはそこまで自分のことに目を向けてくれていたなんて。嫌がらせをされたこととか、ノートが読めなくなってしまったことか、そんなことの全てがどうでもよく感じられた。息ができなくなるくらいまで強く、両の拳で胸を抑え付けた。そのくらい、嬉しかった。
「何をニヤニヤしている」
見ていないはずなのに、背後の自分の表情を言い当てられて、さらに驚いた。
「そもそもこんなものは、お前の頭の中に入っているべきなんだぞ。ノートがなくなったからと言って今までの学習が全て無駄になったなどと、甘えもいいところだ。もっと集中して授業を受けろ。あらゆる理論は、お前の魔法力を補うものなのだからな」
「……はい。……はいっ!」
涙ぐみながら何度も頷いた。
さすがに量が多く、完成したノートを受け取ることができたのは次の日のことだったけれども。いやそんなことは些細なこと。自分を支えてくれる、見守ってくれている人たちが、数は少なくても確かにいる。それを自覚できて、この上なく幸せだった。
「ねえ、ゼーランドさん」
唐突に、アルセステが声をかけてきた、
教室移動の途中の廊下。師から受け取った大切なノートを、しっかりと胸に抱いたまま、声に反応して振り返る。いつもの三人、いつもの立ち位置で、いつものにやけ顔でティリルのことを見ていた。
「噂を聞いたんですが、最近、あなたの周囲であまりよくない出来事が起こっているとか?」
どういう意味だろう。質問の意図を読み取れず、眉間にしわを寄せる。
「くだけた話、あなたをいじめているような不心得者が増えていると聞いているけれど、大丈夫?」
「え、ああ、はあ……」
何も知らない体を装って、今さら何を言ってくるのだろう。やはりその真意はわからなかったが、とりあえず受け身になり続けるのもいい加減つまらない。答えるべきところは答えてやろうと、ティリルはアルセステの目を見据えた。
「そうですね。ノートが破られたり、転ばされたり、そういうことは最近しょっちゅうですけど」
「やはり……。そうなのね」
さすがのティリルも、白々しいなと感じた。
嫌がらせを受けている時、アルセステたちは同じ教室にいれば、にやにやとティリルの困惑ぶりを眺めていた。眺めていただけで実際に何もしてこなかったから、ティリルも口を出せなかっただけのこと。何度彼らに、「こんなこともうやめてほしい」そう言いたかったか知れない。
今さら一連の件について口を開き、言うに事欠いて「やはり」とは。
「本当に嘆かわしいことだわ。伝統あるこの学院であろうことかいじめだなんて。信じたくはなかったけれど、ゼーランドさんがそう言うからには本当なのね」
「まあ、でもゼーランちゃんにも原因はあるからねん」
劇がかったアルセステの嘆き声に、のほほんと口を開く小柄なツインテイル。確か、こちらがアイントだったか。
「あーんなおおっぴらな嘘ついてみんなを騒がせて知らん顔なんだから、いじめられちゃうのは仕方ないとこもあるよねぇ」
「それでもよ、スティラ」ああ、違った。ツインテイルはスティラ・ルートの方か。「例え全面的にゼーランドさんが悪いとしても、いじめなんて手段を取るのが私は許せないわ」
気が付くと悪者はティリルになっている。心臓が掴まれるような息苦しさを覚えて、早くこの場を立ち去りたくなった。
だが、アルセステたちの言葉は止まらない。ティリルを戸惑わせることを目的として、迷いなく流れていく。
「本当に、恥ずかしいことだと思うの。相手がどんな人であれ、嫌がらせをして自分の気持ちを少しでも楽にしようなんて。私、そういう人たちのことは許せないから、断固として戦うわ」
「さすがラヴェンナさん。素敵だと思います。確かに私も、いじめをするような卑怯な方々のことを認めたくはありません。ゼーランドさんのこと以上に、私もそんな方々のことをどうにかしたい」
「にはは、ラヴィーもシェルリんもまっじめー。ま、あたしもおんなじ気持ちだけどねー」
三人、チームワークよく言葉を紡ぐ。台本でも呼んでいるかのよう。もちろん、そんなものはなく、何らかの企みからのセリフなのだろう。だからこそ尚更気味が悪い。
「だからね、ティリルさん。ぜひあなたの身を守りたい。あなたに危害を加えようという連中を、私たちで懲らしめてやろうと思うの。どうかしら」
「え。……え?」
「大丈夫。私が一声あなたの味方につくと声を上げれば、あなたに害を成す者などいなくなるわ」
「そりゃそうだよ。だって天下のアルセステ家の一人娘だもん。逆らえる人なんてそうそういないよねー」
家は関係ないわ。学院では私はただのラヴェンナよ。言うだけは言うアルセステだが、その表情は何とも誇らしげ。取り巻きの一人たるルートに、よくぞその名前を口に出してくれたと今にも頭を撫でそうな様子で、うんうんと深く頷いている。
突拍子のない提案をされ、ティリルはしばし、間抜けに口を開けたまま、人通りのある廊下の真ん中で立ち尽くした。彼らは何を考えているのか。何を狙っているのか。疑念はあったが、その先を考えるのが難しい程、今言われた言葉で頭が麻痺してしまっていた。




