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遙かなるシアラ・バドヴィアの軌跡  作者: 乾 隆文
第一章 第七節 ラクナグ師の補講
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1-7-2.些細なよろこび







「絵、進みました?」


 静けさを押し潰すように、口を開く。


「うん、まぁ、ぼちぼちかな。ごめんね食事中に。今ちょっと急にインスピレーション湧いちゃって、すぐに手を入れたくなっちゃって」


「ええ、どうぞ。お構いなく。元々お邪魔してるのはこちらなんですから」ただ――。口の端にそう接続詞を乗せ、ゆっくりと立ち上がる。「見せてもらってもいいですか?」


 実のところティリルは興味津々。前に見せてもらったヴァニラの絵はそれだけでもう、一瞬で魅了されてしまう程、魅力的なものだった。そこに、さらにどんな手を加えるというのか。期待が膨らんだ。


「え? ええ? や、別にいいけど、全然、面白いもんじゃないよ?」


「そんなことないです。私、ヴァニラさんのこの絵、大好きなんですよ?」


 またそんなお世辞を、と口許を引き攣らせるヴァニラ。その言葉を聞き流し、ティリルは図々しくヴァニラの背後に回った。恥ずかしそうに笑うヴァニラを半ば気にせず、描かれた絵に目を向ける。


 一瞬は、何が変わったのかよくわからなかった。前に見たときと同じで、森の中の少女と精霊。その姿が嫋かに表わされている。そういえば、昨日まではこの絵には布がかけられていて、ヴァニラはティリルと一緒に昼食を取っていたな。ひょっとしてまだ何かが変わるほどには描きこまれていないのだろうか。


 そんなことをぼんやり考えているうち、ふと気付いた。赤っ毛のセミロングヘアだった少女が、茶色のロングヘアになっていることに。


「……髪の様子を変えたんですか?」


「う、うん……。髪型もだけど、女の子のイメージを全体的に変えた、って言うか膨らませたんだ。前より細かいところを鮮明に描き込んでるつもり。前はもっと、正体を掴ませない感じでぼんやりにしてたんだけど、逆に具体的な女の子として描こうと思ってね」


 へえ……。自然に、声が漏れた、感嘆とはこういうことを言うのかと、後から思った。


「で、この子のイメージを考えてたら、精霊の方もちょっと手を加えるイメージができてきたんで、これから少し試してみようかなって思ってたとこ」


「これ以上、まだそんなに描き足すことがあるんですか?」


「あるある。全然完成してないんだこの絵。もっともっと描き直して、夏までには完成させられるといいなって思ってるんだけど」


 そんなにですか。実感の湧かない絵描きの労苦に、気の利かない感想を漏らす。想像の限りでの大変さにつくづく溜息をつきながら、ティリルは改めて目の前のキャンバスに見惚れた。


 ヴァニラは、ティリルを見ていた。あんまり絵を見られて恥ずかしいのか、筆を動かす手を止め、じっとこちらを見つめている。ああ、ごめんなさい。先にティリルが謝り、絵から離れて椅子に座り直した。絵を見られているのが邪魔で製作ができないのか、と思ったのだが、しかしヴァニラは場所を移したティリルのことも、首を回してじっと見つめている。


「? どうかしましたか?」


「え、あ、いや。なんでも。うん、なんでもないよ」


 慌てた様子を押し隠すように、ヴァニラは両手を振る。腑には落ちなかったが、それ以上追及するわけにもいかなかった。


 代わりに、珍しく冗談でも言ってみる。


「もしその絵が高く売れたら、美味しいものいっぱいご馳走してくださいね」


「はえ? なに突然」


 きょとんとした表情でこちらを見てくるヴァニラに、ティリルは舌を出して笑って見せた。意図が伝わったようで、成程そういうことかと一瞬にんまりしたヴァニラは、次いで、


「こんな絵、高値で買ってくれる人なんか他にいないから、完成したらティリルに譲るよ。ゼロは五つでも六つでも、好きなだけ並べていいからね」


「えっ、いやいやいや、全然並べたいなんて思ってないですし! 言い回しおかしいですし!」

 二人で笑ううち、いつの間にか昼休みは過ぎていった。




 ヴァニラと話す昼休みは癒される時間だったが、ティリルの日常は相変わらずだった。周囲の人間が皆、敵に思えてくる。今はまだ、嫌な思いをさせられてそれを笑われるだけで済んでいる。だがこれが、エスカレートして直截的な攻撃に変わっていったら。例えば空気の固まりで躓かせた、その先に刃物でも置かれるようになったら。――やはりヴァニラに一緒にいてもらうようにした方がいいのかと、不安が募った。


 落ち込むティリルを励ましてくれた出来事が、しかしそれから、いくつか重なった。些細な喜びだった。その程度のことで、気持ちが立ち直るのが可笑しくなるほどだった。


 一つ目は、いつもと変わらぬルームメイトの気遣い。ヴァニラに相談したその夜、耐え切れずミスティにも零してまった弱音。聞くやミスティは、拳を握り締め机を叩いて、咆哮を上げた。


「はあああ? 何よそれ、許せないっ! そいつら一体何しに学校に来てんのよ!」


 そして、次の日の実技の授業、始まる前の準備の時間に同じ教室に来てくれて、周囲の人間を牽制してくれた。ティリルの隣に座り、視線を送ってくる周囲に自分から目を合わせてにこにこと会釈。声をかけてこない相手を鼻で嗤うや、


「少しは吠えて見せればいいのに。陰でこそこそしてばっかりで、本人やその友達を前にしたら何にもできないなんて、負け犬にも劣る小動物よね」


 教室中に響くような大きな声で、言ってのけた。


 ざわつく雰囲気をよそに、ミスティは鐘の鳴った頃合い、教室を出て行った。受講生の多い講義であれば受講していない者が潜り込むことも容易いが、少人数制の実習では難しい。衣を貸してくれた獅子がいなくなったことで、周囲の攻撃がまずます激しくなるのではないかなと覚悟はしていたが、ラクナグの前でそんなことができる心臓の持ち主はどうやらいなかったようだ。授業が終わってからもこの日は何もなく、翌日以降も程度は大きく変わらず、ミスティの発言が何かに影響したということはまるでないようだった。ただ、沈み込んでいたティリルの気持ちを大変に癒してくれた。それが一番大きかった。


 支えになる出来事は、他にもあった。養母であるローザから、手紙が届いたのだ。懐かしいローザの流麗な文字に、涙が出そうになった。


 しばらく前、大学院での生活が落ち着いてきた頃に、ティリルはローザに手紙を書いていた。ローザも受け取るやすぐに返事を書いてくれていたらしかったが、王都とユリとではこれほど手紙のやり取りにも時間がかかってしまうらしい。その、返事がようやく到着した。


 ウェルもティリルもいなくなって、毎日の生活を回すのが大変になった。どうにか最近慣れてきて、ゆっくりとできる時間も作れるようになってきた。そちらは元気にやっているか。風邪など引いていないか。淋しくて泣いていないか。穏やかでかつ遠慮のない、相変わらずの物言いが、乾き始めていた心に沁み込んだ。


 父、ユイスからの手紙はまだ届かない。町まで下りるそのたびに、ローザは郵便局へ寄ってくれているという。届いていれば、すぐさま転送するつもりなのに。そういえばウェルからも手紙のての字もない。全く男どもは本当に薄情よね。おどけた文脈にティリルもうんうんと頷いた。


 届いた手紙は、机の引き出しの、リボンをかけた包みの下にしまった。大切なものが増えるたび、ここが自分の場所になっていく実感が湧いて、救われた。




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