1-7-1.広がる、嘲笑
地曜日の授業は三時限目の「王国史概論」のみ。魔法学とは直接関係のない歴史学の講義で、専攻分野を問わず様々な学生が受講している半面、同じ専攻でも選択していない者もまた多い。
受講生の数が予科本科合わせて百名以上に上る大規模な授業のため、隅々まで見渡せたわけではないが、アルセステ達の姿はない。にもかかわらず、授業の空気は明らかにいつもと違っていた。
授業の最中に、足の位置を少し動かそうとして、何か違和感を覚えた。足元を覗くと、そこには食べかけのたまごサンドが置いてあって。ティリルの靴がしっかりとそれを踏みつけてしまっていた。座ったときにはなかった。なぜこんなものが置いてあるのだろう。周囲を見回すと、皆、笑いをこらえながらわざとらしく視線を逸らす。悪意が感じられた。
さらに授業の終了後、隣の席にいた女性が、立ち上がろうとして手許の飲み物をこぼしてしまった。「ああ、やっちゃった」と呟き、陶器の器を持ち直して机の上をハンカチで拭き始めた彼女だったが、隣の席のティリルには一言も謝ろうとはしなかった。中身はただの水だったようだが、ティリルのノートは右の上端あたりがかなり広く濡れてしまっていた。気付かぬはずもなかろうに、ご丁寧にティリルのノートはしっかりと避け、机の上だけを拭いて、さっさとその場を離れて行った。また、周囲からくすくすとした品のない笑いが聞こえてくる。あまりのことに、何か言葉を発することさえ、すぐにはできなかった。
雰囲気が変わった。三歳児にでもわかるほど、露骨に。
周囲が悪意に満ちていた。ティリルをとり囲んでいる空気が、困惑から敵意に変わっている。それがわかった。
濡れてしまった紙の端を自分のハンカチでそっと拭き取り、静かに立ち上がった。もう辺りから人がいなくなった頃合い。荷物をまとめながら、とても惨めな気分になった。
今日の授業がこれだけでよかった。明日は闇曜日で救われた。
何が原因だかは知らないけれど、一日も間が空けば皆こんな雰囲気は忘れるだろう。そう思い、滲んだ涙を手の平の底で拭う。
結局、教室から出るのが最後になった。向かうのはフォルスタの研究室。師が自分の悩みなどに目を向けてくれないのはわかっている。その方が気が楽だったし、報告する気もなかった。『この程度のこと』でルーティンを崩してしまう、その方がよっぽど悔しかった。
ミスティにも、報告などしない。そうこの程度のこと、なんでもない。人のことを小馬鹿にしていた周囲の学生たちに、心の中で大声で言ってやった。
週が明けても、様子は変わらなかった。
ある授業では、立席の際、足元に突然何かの抵抗を感じつまずかされた。魔法で作り出した空気の塊だったのだろう。周囲を見回してみても、誰がやったかはわからなかった。ただ、例によって犬の子をくすぐるような押し笑いが、あちこちから響いてきた。別の時には、少し席を離れた隙にペンの先が折られていて書けなくなっていたこともあった。
「どうしたの? ゼーランドさん」
興に乗ったのかわざとらしい音色で声をかけてくる者まで出てくるようになった。最初は、雰囲気を無視して自分に気を遣ってくれる優しい人がまだいたのかと表情を緩めたが、少し話をすると、「そうなんだ、そりゃ大変だね。まぁ、頑張ってね」などと、満面の笑みを浮かべて去っていく。そんな姿を目の当たりにして、落胆させられるのだった。
ああ、嘲笑いに来ただけなのか。肩を落としてしまう自分が、嫌になった。
あの日を境に、この状況が始まった。教室で、アルセステ達に拒絶の返事をした、あの日を境に。当然、ティリルは周囲のこの空気の発端を、アルセステ達だと考えていた。だが、こういった悪意の詰まった悪戯は、彼らが一緒にいる授業でも、いない授業でも起きた。一緒にいる授業では後ろの席から、ティリルの姿をにやにやと笑いながら見守っていたが。それが、不思議でならなかった。
「アルセステ? あの、アリアネスの大企業の?」
ヴァニラが、筆を操る手を止めて、聞いた。
知っているんですか? ガルラードを頬張りながら、訊ね返すティリル。
少し前までは視線が気になるので気後れする、程度の弊害に過ぎなかったが、今や食堂での昼食は実害を被る。全く知らない、隣に座っただけの学生たちが、ジュースやらジャムやらを飛ばしてきては制服に染みを付けてくれるのだから、落ち着いて食事などできるはずがない。
「そりゃあね。有名な貿易商社だから、名前くらいは聞いたことあるよ。アリアネス共和国のアルセステ家が経営している運輸会社で、交易範囲はバルテの南からウェンデの北部まで幅広く。当然、ソルザランドでも大きな影響力を持ってるよね」
ヴァニラと過ごせる昼休みは、食べるものをどこかで買ってきて、美術室を使わせてもらうようになった。食べ物を持ち込んでもよいものか悩んだが、むしろヴァニラから、「匂いがきついのが嫌じゃないなら、私は全然」と気遣われた。他に人が来ないかも気になったが、安心していいというのがヴァニラの言だった。
「そうなんだ……」
「会ったことはなかったけど、そういえばそんなお嬢さまが同じ学年にいるとは聞いたことがあったっけ。じゃあ、ティリルは今そのお金持ちに睨まれていじめられちゃってるんだ」
「まぁ。確証はないんですけどね、恐らくあの人たちがみんなにやらせてるんだろうって」
両手でガルラードを抱え、もくもくとかぶりつき続けるティリル。食堂は居心地が悪いのでと言ってよくこの美術作業室を使わせてもらうようになったが、実のところ、いじめについてを直接的にヴァニラに相談するのはこれが初めてだった。彼らの手口は妙に慎重で、ティリルが誰かと一緒の時には――ティリルと一緒に授業を受けてくれる誰か、は今のところヴァニラとダインだけなのだが――まるで手を出して来ようとしないのだ。
「しばらくついていてあげようか。そんなんじゃ大変でしょ?」
製作を再開、筆を動かし始めたヴァニラが、片手間だったがそう言ってくれた。気持ちは、嬉しい。だがその言葉をそのまま受け取って、甘えるわけにもいかない。
「ありがとう。でもヴァニラさんも受けなきゃいけない授業がありますし、そこまでしてもらうわけにも。一緒の授業で一緒にいてもらえるだけでも、感謝してます」
「そお? 私は絵が描ければ最低限在学の目的は果たせるし、ティリルが不安なら本当に大丈夫なんだよ」
だからいつでも言ってね。キャンバスの陰からそう笑ってくれるヴァニラに、もう一度ありがとうと答えた。それ以上、ヴァニラは言わなかった。また、筆に集中し始めた。




