0-2-3.そしてウェルの決意は
先ほどの薄汚い刃物屋にあっては、空腹も忘れるほどに頭の中も胸中もウェルにかき乱された。――と、思ったのはどうやらティリルの錯覚だったようだ。
「ふあぁ、美味しかったぁ」
フォークを置いて、ティリルは満足に声を上げた。その前には、ポテトグラタンとパンとサラダとコーンスープと野菜ジュースとデザートのケーキが盛られていた食器が、みな空になって並んでいる。
レストラン・ミルルゥはユリのメインストリートに面を向けた、高級と中級の間くらいの料理店だ。人気のメニューはグラタンとレッドシチュー。ありふれた料理だが、材料が良いのか手間をかけているのだか、とにかく相当に美味しくまた相当に高い。ティリルが頼んだようなフルオプションのセットメニューは当然値段も跳ね上がり、油断していると一度の昼食で四、五百ランスは軽く飛んでしまう、恐怖の店なのだった。
そんなわけでティリルもウェルも、自分の小遣いではこんな店で食事する機会などまずもって得られない。ティリルの満足顔には、満腹感と美味しいものを食べられた幸福感の他に、この店に来られたことへの興奮も含まれているのだ。
「……そりゃ、おごりでこれだけ喰えば満足もするだろうさ」
ウェルは少し恨めしそうに、水を飲みながらティリルの幸福を睨んだ。その腹の内は、彼の前に並んだ皿を見れば容易に推察できる。オムレツとパンとが乗っていた二枚の皿と、まだ半分水が残っているグラス、以上。店で一番安いメニューだ。
「えへへ、ご馳走様でした」
「どういたしまして。ったく、とんだ散財だ」
ぶつぶつと、ひたすら愚痴を零しているウェル。確かに昼食としては高かったけれど、先ほどその財布から躊躇いもなく出ていったあれだけの大金を思い返せば、何となく罪悪感も薄れてしまう。と言おうか、あれだけ勿体つけられいまだ胸中の奥底に蟠る不安を拭ってもらってはいない以上、それくらいしてもらっても当然だ、とさえ思う。そう、これだけ不安な思いをさせられているのだ。高くて美味しいお昼ぐらいは、おごってもらって当然じゃないか!
「で、ウェル。お昼も食べ終わったし、さっきの話をちゃんと聞かせてよ」
頭の中で自分勝手な理屈を組み立てながら、ティリルはさっそく件の話題を切り出した。なぜウェルがあんなナイフを買ったのか。何度も訊ねたその目的を、まだ聞かされていない。
「あ、ああ、その……」
ウェルの顔が神妙に曇る。そして、それからまたしばらく黙り込んでしまう。
ティリルもいい加減、我慢が出来なくなった。
「ねぇ、そんなに話したくないことなの?」
だったら何で私のこと町まで連れてきたの?と、次に続ける一言を用意しながらウェルの答えを待つ。
「――……いや、話したくないっていうんじゃなくて。……話さなきゃいけないってわかってるんだけど、何から話せばいいかわかんないんだ」
「? 何からって、そんなに複雑な話なの?」
「ん、複雑ってわけでもないんだけど……」
やはり、ウェルの態度は歯切れが悪い。首を捻るティリル。こんなに言動のはっきりしないウェルは今まで一度も見たことがない。
口を尖らせて更に待つ。そこでようやく、ウェルもこれ以上ティリルを待たせられないと覚悟したか。ぐっと目を研いでティリルを睨視した。
「ごめん、ダメだ。やっぱり一番いい話し方が見つからない」
「……え?」
「だから簡潔に言うよ。実は俺、旅に出ようと思ってるんだ」
あっさりと。
散々もったいぶったくせに。
ウェルは確かに簡潔に、ティリルに衝撃を伝えた。
ティリルはすぐには、目前の青年の言葉が理解できなかった。
「……え、……あ、旅行に行くの? う、羨ましいな。どこに行くの? 都? それとも外国? あ、そうだ私も連れて――」
「ティリル」怒りすらこもっているかのような、厳しい声音。「遊びに行くんじゃない。剣の修行のために、ダザルトに行こうと考えてるんだ」
困惑するティリルに、ウェルははっきりと、切り捨てるように言い切った。
ダザルトは、エネア大陸の南、タミア砂漠を抱える荒地の小国だ。商船貿易に都合の良い内海の央部という立地から、各地から商人が集まって『商業の国』として発展させた一方、砂漠には剣の一つで生活の全てを立てる盗賊が跋扈する『略奪の国』でもある。
「ダザルトで、本物の盗賊と実際に剣を合わせて真剣勝負がしたい。そうすることで、きっと俺はもっともっと強くなれると思うんだ」
ウェルは真っ直ぐにティリルの瞳を見つめて、宣言した。
目が離せない。離せば彼を見失いそうで、あるいは二度と彼に見向いてもらえなくなるような気がして、ティリルはまばたきさえ怖くてできなかった。
「あ、あの……。その、い、意味がよくわからないんだけど……」
混乱している胸中を、混乱したままに吐露する。
「何でそんなことするの? それってすごく危ないんじゃないの?」
「そりゃ勿論。命の保障だってないさ。けど俺、どうしてもやってみたい。自分の力を試してみたいんだ」
「だから、どうしてっ?」
「俺、小さい頃から、おじさん――ユイスさんにいろいろ教えてもらって、剣を持つことも教えてもらった。おじさんは俺が十二、三になるくらいにはもう旅に出ちゃったけど、それまでの間剣を教えてもらって、そのあとも一人でちゃんと剣の稽古を続けて、それで随分強くなったんじゃないかって思ってる。
何度か、この町の剣術道場にも行ったことがあるんだ」
「剣術道場って……、あの裏通りの?」
「ああ。郵便局の裏手にあるところだ。腕試しをしたくて、そこに通ってる人や道場主に相手をしてもらってさ。けど、二三回相手してもらったけど、はっきり言って俺の方がずっと強かった」
「えっ」息を呑む。「ウェル、そんなに強くなってたのっ?」
「あぁ……、その、それだけじゃなくてさ。道場で教える剣術っていうのは、やっぱりある程度ルールがあって、それに従って勝負をつけるスポーツみたいなものだから。おじさんが教えてくれたような、純粋に身を守るための剣とは基本が違うんだ」
ウェルの話はティリルにはよくわからなかった。理屈はわかるけれども、実感がついてこなかった。ただウェルが、この町の剣術道場の誰よりも、ということはひょっとしたらこの町の誰よりも、剣の腕に関して強くなってしまったということ。それだけは浅薄にながら理解させられ、強いショックを受けたのだった。
なんだかウェルとの距離が急に遠ざかってしまった。そんな気がした。
「けど、その、さ。世界にはまだまだ俺なんかよりも強い奴がいくらでもいるはずだし、中でもダザルトの盗賊って連中は今でも剣一本に命まで賭けてるんだって聞くし。
俺、もっと強くなりたいんだ。もっと強くなって、そういう連中にも勝てるようになって、――おじさんにも、勝てるくらいになりたい」
静かに、ウェルは語った。その言葉の途切れる最後まで、ウェルの瞳は一瞬たりとティリルから逸らされることはなかった。
「な、……なんで、そんな風に思うの?」
けれど、ティリルだって黙って彼の話を聞き入れられない。ウェルが自分のことを置いて、旅に出てしまう。そんなのは嫌だった。
「何で、そんなに強くなりたいなんて思うの? ユリの町で一番になったのなら、もう十分じゃない。お父さんにだってもうきっと勝てるくらいになって――」
「いや」即座に、遮られる。「そんなことない。おじさんはもっともっと、今の俺だってまだ足元にも及ばないくらい強かったんだ。今のままじゃ、俺はいつまでたってもおじさんに敵わない。だからダザルトへ行きたいんだ」
「……で、でも、ローザさんのことはどうするの? 置いていくつもりなの? ウェルのたった一人のお母さんじゃない」
「母さんにも……、昨夜相談した。どうしても行きたいって伝えたら、笑って『行ってきなさい』って言ってくれたんだ。母さんの性格は、ティリルだって知ってるだろう? 今さら決意を変えたら、それこそ怒られちまう」
頬の僅かに苦笑を添えて、言う。ティリルの口からはそれ以上、もう言葉が出ない。反論の余地が見つからない。
反論ではなく、伝えたいのは『行かないでほしい』の一言。たったそれだけの言葉さえ、喉から外には出てこない。自分からそんな思いを認めてやりたくない、という意地もどこかにはあったが、何より『ユリを離れることをウェルが選んだ』ことが、ティリルには辛くてたまらない。