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遙かなるシアラ・バドヴィアの軌跡  作者: 乾 隆文
第一章 第六節 不穏な影
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1-6-7.名を、ラヴェンナ・アルセステという







 三次限目の授業は、ラクナグ師の召喚魔法実技演習だ。例の三人が、恐らく同じ教室に座っている。


 授業には、わざとギリギリになってから向かった。ただでさえ、このところはずっとそうしていた。その上例の三人のことがあれば、授業が始まるまでの余白の時間を、針の筵の上で過ごしたいと思うはずもない。鐘が鳴るや鳴らずのタイミングで教室に入ろう。そう思っていたところ、ラクナグ師に背後から声をかけられるのが先になってしまった。


「何をしている。もう始めるぞ。さっさと教室に入れ」


 は、はいっと飛び上がって返事をする。同時に鐘が鳴った。


 まあ、師と同時に教室に入れば、背中に刺さる噂話も、直截的な嫌がらせも気にしなくてすむ。軽く浴びてしまうだろう注目など、ここ数日のそれに比べれば些細なものだ。師に先んじて小走りに教室に入る。いつも自分が座っている辺りの席へ向かうと、その周囲はそう決まっていたかのように誰も座っていなかった。


 注視を意識しないよう、なるべく顔を下げたまま席に着いたつもりだったが、その実それを気にしている自分はやはりごまかせない。一番後ろの席に、約束事かのように同じ並びで三人座っている、彼女たちを。ちらりと上げた視界に、それは、確かに映り込んだ。


 こちらを、見つめていた。にやにやと、べたつく笑みを目許に浮かべながら。立ち止まらずに、竦まずに、荷物を置いて席に着くことができた自分を褒めてやりたかった。


 水飴のようにねっとりとした時間が過ぎた。集中などできるはずがない。いつもの半分ほども力が出せなかったティリルは、今日の課題の悉くで散々な成績を記録した。その勢いや、ラクナグ師も一瞥に捨て置くほど。この後予定している個別補習の時間を思うと、下腹部がきりきりと痛むようだった。


「ではここまで。ゼーランド、さっさと研究室に来い」


「あ、……は、はい!」


 終業の鐘が鳴ると、吐き捨てるように師が言った。他の学生たちは驚いた様子だったが、ティリルの中にはその言に対する新鮮味はなかった。慌てて荷物をまとめ、機嫌悪く教室を出ていく師の後を追う。誰かに絡まれることなく、鋭い視線を浴びることもなくすんなりと教室を出られる有難さを思えば、このあとの説教など大したことではない。たった数回授業を受けただけだったが、そう思えるくらい、ティリルはラクナグ師に心を開いていた。


 師の背中について研究室の扉をくぐる。いなや、師は手にしていた教材を机に放り投げ、椅子に腰を落として額に右手を当てた。


「説明しろ。あれは一体何なんだ」


 叱責を受けるものだと思っていたティリルは、まず質問を受け、少々戸惑う。


「え、あ、えっと、その……、あれ、ですか?」


「今の授業だ。いや、もう随分前からか?」


 追及され、困惑を隠せぬまま、ええ、あっと、と接続詞とも感嘆詞ともつかぬ音を重ねてしまう。問われているのは自分の不甲斐ない授業姿勢。それしか思い至らなかったが、自分の言葉で理由を述べさせられるのが想外で、うまく落ち着くことができなかった。


「お前もわからないことなのか?」


「いえ、あ、いえ、その……」無理矢理に、気持ちを抑え付ける。「その、えっと、教室中の注目を浴びてしまう今の状況に押し潰されて、魔法に集中できていなかった――、と思います。ごめんなさい」


「違う。なぜ注目を浴びているのか、と聞いているんだ」


 え――、首を傾げた。


 学校中の噂になっているから、てっきり師の耳には届いているものだと思っていた。そのことを尋ねられているなど、想いも寄らなかった。思わず失礼な質問を返してしまった。


「あ、あの、御存知ないんですか?」


「知らないから聞いているんだ。悪いのか?」


「いえ! いえ、そんなこと! 

 ええっと、えっと、私が注目を浴びているのは、数日前、私がシアラ・バドヴィアの娘だっていうことがみんなに知られてしまったからで……」


「そうなのか? なぜ知られたんだ」


「え、それがその……、突然知らない男性が教室に入ってきて、みんなのいる前で、私のことをそういう風に呼んで――」


「なんだそれは」


 私にも訳がわからないんです。訝しげに腕組みをするラクナグに、泣きそうな声で鳴き付いた。師は背凭れに深く背を委ね、ふうと一つ大きく息を吐く。そして、


「その男の正体は、未だにわからないのか」問うてきた。


「わかりません。そのときは私、唐突に名指されてパニックになってしまって。もう数日前のことなので、顔もよく覚えていないんです。ただ、あの時の声は耳に残っているかな、くらいで……」


「…………」


 黙り込み、口許に手をやるラクナグ師。ふむと考え込むその姿に、ティリルは何となく安心感を覚えていることに気付く。授業に集中できなかったことへの説教を受けるものだと思っていたのに、ラクナグはそこに理由があると考え、それを究明することを是としてくれた。胸の内がほっこりと暖かくなった。


「あ、あの――」


 勢い、もうひとつ気になっていることを口にしようと思い立った。


 上目遣いにティリルを睨み、何だ、と質すラクナグ。もう、怖くはない。


「先程の実習の、先生の方から見て右側の、一番後ろに座っていた三人の女性、わかります?」


「右側の――、お前のずっと後ろの席か?」


「あ、はい、そうですそうです」


「アルセステたちのことか。確かによく三人つるんでいるようだな。あいつらがどうした」


 アルセステ。それが彼女の名前か。ティリルは喉の奥で繰り返した。人のことを悪く言うのは元来得意ではない。師に、先日の彼女たちとのやり取りを話すことには多少の抵抗があった。だが、助けを乞いたい気持ちの方が強い。


「実は、先日彼女たちに声をかけられまして――」


 ティリルの話を、ラクナグは静かに聞いてくれた。腰を折ることもなく、真摯に、黙って。まさか彼女たちがそんなことをするわけが! そう言われることも頭の片隅で覚悟していたティリルだったが、話を聞き終わったラクナグの第一声は、少なくとも自分の話を無碍に否定するものではなかった。


「アルセステと、アイントとルートの三人が、お前に『虚偽を認めろ』と迫った、というんだな」


 確認。はい、そうです、と肯じる。


「あの人たちは、そういうお名前なんですね」


「ああ。なんだ、名前も知らなかったのか。黒髪がラヴェンナ・アルセステ。背の高いのがシェルラ・アイント。背の低いのがスティラ・ルート。三人とも、成績上位の優秀生だ」


 優秀生、と師は付け足した。暗に、彼女たちの方が信頼がある、と言われているように感じた。成績が優秀だと何だというのか。実力者ならいじめなどしない、という保証でもあるのか。心が僅かささくれ立ったが、ラクナグは構わず言葉を続けた。


「お前の話が本当かどうか、今の私には判断はできん。現場を見たわけではないし、アルセステ達にも言い分があるかもしれないのに、まだそれを聞いていないからな。

 ただ、そう――」


 ひとつ、間を置いてラクナグ師はティリルを睨む。上目遣いに。


「奴らの話を確かめるまでもなく、一つだけはっきりとしていることがある。なにがさて、お前が今立てられる一番単純な対策は、魔法の実力を上げることだ」


「え……。え――」


 息を飲んだ。現状を嘆き、せめて改善する策として昨日ミスティと二人校内を歩き回ったティリルは、しかし自分が取れる現実的な対策が他にもあることに全く考えが及ばなかった。


「で、ですが、私が魔法の実力をつけて何か変わるでしょうか」


「胸を張ってバドヴィアの娘だと名乗ることができるだろう?」


「そ、それは、そうですけど……」


「広まってしまった評判を打ち消すことはできない。幸い、広まった噂は嘘でも誇張でもない、紛れもないお前の真実だ。その肩書きに見合う実力さえ身につければ、やっかみは減るしお前の気負いも必要がなくなる」


 ラクナグの言葉はいつもの通り、逆接をつなぐ余地を与えない。つないでみたティリルの疑念は、道端の石ころのように軽く蹴り飛ばされた。


 加えて、「お前のやることが決まったところで、今日の復習だ。自覚はあったようだが、はっきり言って今週のお前の成績は酷過ぎる」冷たく言い放ち、立ち上がってティリルを視界から外した。


 強引で辛辣な師のやりようだったが、不思議と嫌な思いは少なかった。ただ、このあと小一時間厳しい補習が行われる、そのことに少しだけ溜息が零れるくらいだった。



 

 一時間どころではなかった。


 日がまだ南天のうちにあった頃合いに始まったラクナグの補講は、完全に日が沈み切ってからようやく終わりとなった。


 へとへとに草臥れながら、研究室を後にする。このあと、階の違うフォルスタ師の研究室へ向かう。それを思うと、階段を下る足取りが尚のこと重くなる。


 ふと、廊下の端で人の気配を感じた。人の気配の少ない研究棟。ぱたぱたと駆けていく露骨な足音に気付かないはずがない。階段から下を覗き込んで見ると、ふわりとした茶色の髪が僅かに見えた。


 確証はなかった。ただの直感。それでも、間違いないと思った。例の三人組の一人――、背の低いツインテイルの少女。ルートと言ったか。ティリルの様子を探り、探っていたことを気取られぬよう慌てて走り去った。そうに違いなかった。


 ……いや。


「疲れてるから、きっと気のせいよ……。こんなに長いこと時間がかかったのに、ずっと外で様子を見張ってるなんて、そんなことあるわけ……」


 厳しい補習の後で、緊張が解けきれずにまだ気が立っているだけ。だから、ちょっとしたことにも不安を感じてしまうだけ。自分にそう、強く言い聞かせた。


 階段を一歩一歩下りる自分の足音が、遥か遠くまで響いているようだった。緊張がまるで解けない。早くベッドに入って休みたいと思う反面、今日は横になっても、きっと心からゆっくりとは休めないだろう、とも予感した。


 困惑の中、一刻も早く魔法の実力を高めよう、その決意だけが静かに胸に灯っていた。





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