1-6-3.予科生の少女
「ところでさ」声を顰める。「ミスティ、ずいぶんティリルさんのこと大事にしてるんだな」
「……それがわかってて、どうしてああ明からさまに大声上げるのよ」
ミスティの目がさらに鋭くなる。何のことだかわからずに、まるで内緒話でもする二人の様子に、ティリルはただうっすらと首を傾げた。
「いや、今気付いたんだよ。お前の話題の変え方が露骨だったからさ。それよりその噂は、ティリルさんが自分で周りの人に言ってるの?」
まさか! 今度はティリルが大声を上げてしまった。人気の少ない午前の食堂で、注目を集めてしまう。このところ、人の視線に晒されること幾回。何度経験してもなお、やはりまだまだ慣れたりすることはない。背を丸め、口を押さえて、恐る恐る辺りを見回し、最後にちょろっと舌を出して、気恥ずかしさを自分でごまかした。
「まぁ、そうだよね。ミスティのさっきからの様子を見てても、ティリルさんは自分から吹聴するような馬鹿な真似をする人じゃないだろうしね。だとすると、この噂ってどこから流れたんだろう」
「人のいる教室で、知らない男性に突然言い当てられたんです」沈痛な面持ちをして、ティリルが答えた。「私の前に来て、『君がシアラ・バドヴィアの娘って本当?』って。その人は全然知らない人で、未だにどこの誰だかわからなくて、なぜ私のことを知っていたのかも全くわからないんです」
「へぇ? そいつは妙な話だな」
こちらを見ながら、ふうんと首を傾げるゼル。横で、溜息をつくミスティ。ゼルに、という雰囲気ではない。改めて、その胡乱な話に苛立ちを覚えている、といった様子だった。
ティリル自身、今のこの状況に辟易している部分は大きい。注目を集めてしまっていることにも疲れを感じているが、その男の正体が依然として知れないこともまた、心の底では大きな負担になっている。思うたび、胸が詰まって息苦しさを覚えた。
ふと。
「あ、あの――」
ゼルの背後から、怖ず怖ずと近付いてくる一つの影があった。
女の子が一人。ゼルから頭一つ分ほど低い背丈。枯れ草色のショートヘア。ティリルが着ている制服と異なった、短い丈のベージュのケープを肩にかけた服装をしていた。
「ん? 予科の子?」
最初にミスティが反応した。
そうか、見知らぬ制服は予科のものか。ミスティの問いかけを通して、ティリルも彼女の正体を知る。そこそこの広さのある敷地とはいえ、その中でティリルが予科生と接触するのは、これが初めてのことだった。
「あの、ティリル・ゼーランドさんですか……?」
問うた。本科生を前に両の拳を小刻みに震わせながら、それでも青い丸い目を輝かせて。
頷くのに逡巡した。だが名乗りを憚るいわれもない。
「はい。そうですけど」胸を張って名乗った。
「あ、あのっ! ティリルさんって、本当にバドヴィア女史の娘さんなんですか」
さらに即答を躊躇われる質問。昨日の彼女たちのように、あるいはもっとあからさまに、罵倒して来るやもしれない。だが返り討ちにしてやると、ティリルは意気込み奥歯を噛み締めた。
「…………本当です」
キャアアアッ。覚悟を決めた頷きだったが、最後の方は耳を劈く歓喜の悲鳴にかき消された。
何の声だかわらなかった。ミスティもゼルも、耳を押さえて身体を避けている。
そしてその一瞬の隙。女の子は立っていたゼルを押し退け、ティリルの脇に突撃してきた。
「本当に本当に、あの伝説のシアラ・バドヴィアの娘さんなんですね! あの伝説の魔法使の力を受け継いでいらっしゃるんですね! すごい! そんな方が目の前にいるなんて、私感動です!」
憧憬の眼差しに、少しだけ含まれる畏敬。さながら、ティリルを師と仰ぐ弟子かなにかのよう。いや、師と表すには軽佻。いっそアイドルを前にしたという方が、その姦しさにはそぐわしいか。
「あ、あのさ。あなたちょっと静かに――」
「ホントに興奮! 私にとって、シアラ・バドヴィアは心の師! 憧れの的! その実の娘さんに、こんな近くでお会いすることができるなんて! 勇気出して来て本当によかった!」
ミスティの注意も全く効果がない。集める注目の勢いなど、先程のティリルの大声程度では比較にもならない。もはや食堂が丸ごと彼女のステージだとでも言いたげに、他の学生たちから食堂のスタッフまで、全員の注視を恣にしていた。
「あ、あの、ぜひ握手してください!」
「へあ、あ、握手、ですか……?」
ゼルの横から両手を伸ばし、つむじが見えるくらいまで頭を垂れる少女。
彼女が何を言っているのか全く理解が及ばず、ティリルはそのままピキシと音を立てて固まってしまう。正直、注目を集めるのとはまた別の意味で辛い。彼女が憧れるような何かを、自分はまるで持っていないというのに。
そろそろと目線だけ動かして、他の二人に助けを求める。が、ミスティもゼルも何も言ってはくれない。まるで毒気を抜かれた様子で、溜息交じりに呆れ顔を浮かべるミスティと、苦笑交じりに楽しんでいる様子のゼル。救援は望めそうもない。
「あ、あの、えっと、あなた――」意を決し、自分で口を開いた。
「リーラ・レイデンです! 名乗りが遅れて申し訳ありません!」
垂れた頭をそのままに、少女は床に向かって名前を寄越す。
「あ、はい。リーラさん。えっと、その、握手、なんですけど……」
「はい! 厚かましいとは思いますが、どうかお願いします! ほんの一瞬で構いませんので!」
「いえ、その――」
思わず逃げ出したくなる気持ちを抑え、生唾をごくんと飲み込んでから。
「その、私、確かにシアラ・バドヴィアの娘ではあるようなんですが、実際のところ他の人たちと何も変わらない、ただの学生なんですよ。いえ、ひょっとしたら他の人たちよりもずっと魔法が使えない、劣等生かもしれません。だから、リーラさんにそんな風に言ってもらえるような人間ではないですし、私と握手なんかしても何にもならないと思いますけど……」
「そんなことありません! シアラ・バドヴィアは私の幼い頃からの憧れなんです! その娘さんとお会いできるなんて、こんな感動、人生で初めてなんです!」
説得を試みたが、同じ姿勢を保ち続けるリーラに、聞いてもらえる耳はなさそうだった。再度、リーラのつむじ越しに、ミスティの顔を見る。面倒くさそうに右手の甲をひらひらと、追い遣るように二三回振るミスティ。「してやれば」と、音を立てずに口が動いた。
「あ、えっと、じゃあ、はい、その――」
観念して、ティリルはリーラの右手を握った。
ぐっと強く握り返された。相変わらず見えるのは頭の天辺だけなのに、その熱意に思わず身を引いてしまいそうになる。ほんの一瞬で構わない、と言った割に、一〇秒も離してくれなかったように感じた。
「あ、ありがとうございました! 私ホントに感激です! ぜひ今後も、いろいろ教えてください!」
やっと手を離したと思ったら、リーラは嬉しそうにばっと顔を上げ。一瞬、満面の笑みを見せたかと思ったが、よほど頭の形に自信があるのか、すぐにまた深々と礼をしてはつむじを見せる。
「では! 失礼します!」
そして、勝手に話を終わらせて、そのまま食堂を出ていってしまった。
ティリルに残されたのは、ただただ正体不明の徒労感だった。




