1-5-4.広まった噂の果て
翌日には、ティリルの噂は、学校中に広まっていた。
学校中は大袈裟かもしれない。ティリルが見知ることのできる世界は狭く小さいので、その外側にまで話が及んでいるかどうかは確かめられない。だが少なくとも、ティリルが見て聞き取れる範囲の人たちの話題は、みな一様にティリルのことだと受け取ることができた。
自意識過剰、とは思わない。明らかに、教室中、廊下中の視線がティリルに集まっている。ひそひそと聞こえてくる話し声は、バドヴィアの名前を乗せている。例の青年にはあの後会うことはなかったが、彼の残した話一つがこれほど影響力を持つとは思いもしなかった。
昨日起こった事態については、昨日のうちにフォルスタ師に報告した。「そうかわかった」と頷かれただけで、特に何かアドバイスをもらえたわけではなかった。その時ダインはいなかったので話せなかったが、部屋に戻ってミスティにも相談をした。心配こそされたものの、今後のことについては、「まあ、なるようになるよ。気にしなくてもいいんじゃないかな」と言われるだけだった。
自分が気にしすぎなのかな、と少し安心して寝床に入ったのだが、起きて部屋を出てみたら大体このような雰囲気だった。
なるべく気にしないようにしよう、と努めたが、人目を気にしないことにも限度はある。明日になれば。明日はきっと。そう繰り返し念じながら、日々疲労を部屋に背負い帰ったが、翌日になるとさらに人目は厳しくなり、噂が収束し始める気配など何日経ってもまるで感じられなかった。
そして、あっさりと一週間が経った。
今日の授業は、午前中の魔法科学総論と、操術魔法実技演習の二教科。どちらも魔法行使学に関わる科目。当然、ヴァニラの姿はなく、一人で奇異の視線に晒される時間となる。
「…………」
そして操術魔法演習は、召喚魔法と同じくラクナグ師の実習科目である。真相が広まってしまったティリルの背中に視線が集まるのに、格好の時間でもあった。ティリルは午前の二つの授業を、ただ沈黙を守って視線に耐え続けた。
「まずは人数分の氷の塊を用意する。それを時間内に削り、なるべく小さな球体を作り出してみろ。より小さくできた者を高得点とするが、終了後室温ですぐに溶けるようでも減点だ」
実習。師がそう言うと、彼の研究生たちか。何人かの若い学生たちが、ティリル達の前に深めの皿を持ってきた。それぞれに形の違う、歪な、大きな氷が一つずつ乗っている。ラクナグ師の指示は簡単だ。そして、恐らくその作業でティリルがよい結果を残せないだろうことも、ティリルも、師も了解済みである。
にも関わらず、演習室中からひしひしと集まってくるこの視線。操術演習と召喚演習は、受講生が全く同じ。ティリルの実力を知らぬ者はいるはずがないのに、尚、噂は本当なのか、嘘に決まっているじゃないか、とその程を確認しようとする。このところ困惑続きだ。
果たして、結果は問うまでもなかった。全くできない、と言う程ティリルの魔法も酷いものではなくなったが、削った氷の大きさは、拳の半分ほどもあるもの。クラスの中で一番悪い成績でなくなったのはこの短期間では驚く進歩だと自分でも思うが、さりとて注目を集める程度でないのもまた、言わずもがなである。
ひそひそと、声が小さく響く。
やっぱり嘘なんじゃないの? 本当のわけないじゃない、あの程度の人が。――とても小さな声なのに、なぜかその内容は鮮烈に、ティリルの裡に届いてくる。
顔を上げれば、ラクナグ師もとうに異変には気が付いている様子。もはやこのような雰囲気になってから三度目の実習。それでもはっきりとした何かが掴めていないのか、眉を顰め、きょろきょろと声の元凶を探ろうと視線を動かしている。そして、実際何か大きな害があるわけでもなく、明確に原因を追及できぬまま、今日に到っていた。
授業が終わる。今日は、ラクナグ師の補習もない。
食堂で昼食を取るなんて、好奇の目に晒されるのがわかっているのに絶対にご免だ。何か軽食になるものを買って、研究室で時間を潰させてもらおう。そう考え、売店のサンドイッチを持って研究棟のフォルスタ師の部屋へむかった。
「ねえ。ゼーランドさん」
声をかけられた。
思いがけず肩がびくりと跳ね上がって、心臓の音が激しく鳴り出した。
人っ気の少ない研究棟の廊下。誰かとすれ違うことなどめったにないここで、自分の名前を呼ばれるなどとても経験したことがない。せめて知り合いの誰かであろうと願いながらゆっくりと振り向いたが、その想いが叶えられることはなかった。
背後にいたのは、見覚えのない少女三人。猫がネズミを狙うような嫌らしい目付きで、にんまりと笑いこちらを見ていた。
「少し話をしたいんだけど、いいかしら?」
中央に立つ少女は、鋭い釣り目の黒髪ショートカット。腕組みをし、いかにも自信に充ち溢れた勝ち誇った笑顔で、ティリルを睨みつけている。
話しかけてきたのはどうやら中央の彼女だ。三人がどういう関係かは知らないが、今立っている雰囲気を見る限りでも、彼女がリーダー格らしい、とは想像がつく。
「え、あの、えっと……」
「お時間は取らせないわ。二、三聞きたいことがあるだけ」
冷笑の温度を全く変えることなく、黒髪の少女は言葉を続ける。有無を言わさぬ強い口調。ティリルの返答を待ってくれてはいるが、拒否の回答は許してもらえる気がしない。
「そ、その」
「本当にすぐに終わるお話ですよ。ちょっとお願いしたいことがあるだけなんです」
向かって右の少女は、中央の彼女に比べ、大人しい印象。黒に近いこげ茶のベリーショートヘア。三人の中で一つ頭が抜けて背が高く、体格もスマートな割にしっかりしている。
「だいじょうぶだいじょうぶ。怖がんなくっていいよー」
対する左は一番背の低い、あどけなさの残る女の子。輝く黄金色の髪を頭の両端でツインテイルに結わえ、悪戯っぽい微笑みを、口許に、にししと浮かべていた。
不安が募る。だが、ここから態度を頑なにして逃げ出すのも、最善ではないと思われた。
「え、えっと……、どんなご用ですか」
「ふふ、聞いてくれるのね。嬉しいわ」
用心しながら怖々聞いてみると、黒髪の女性が心底嬉しそうに破顔して見せた。のみならない。三人とも、同じような表情で、ティリルを壁際に取り囲むようにして、一歩ずつ前へ進んできた。
威圧されている。その表現が一番しっくりきた。
「みんなが妙な噂を口にしているじゃない? あれ、ゼーランドさん御存知?」
「え……、その、あ、えっと」
「御存知ないのかな。なんだかみんな、ゼーランドさんに直接何かを言ったり聞いたりできないって様子だったから。変な話よねぇ。話しかけもできない相手の噂話に時間を割いてるんだから」
くつくつと、くぐもった笑み声を響かせる。
気味が悪い、とティリルは思った。言いたいことがあるならば、はっきりと言ってほしい。なぜ、こんな焦らすような、嬲るような話し方を続けるのだろう。
「みんながね、あなたのことを『シアラ・バドヴィアの娘』って呼んでいるのよ。そして、その噂が本当なのかどうか、推し量っては首を捻ってるってわけ。知らなかった?」
「あ、いえ、その、知っては、いますけど……」
「そう、よかった。あながちまるっきりの節穴ってわけではなかったのね。でも、ねぇ。不思議よね。一体どこからそんな噂が流れちゃったのかしら」
「…………」
とぼけた様子で、同意を求めてくる。ええ、本当に、なんて気軽く頷いてしまいたいくらい。不幸にも大して節穴ではないティリルは、対峙する少女が婉曲的に何を言っているのか、ある程度察せられてしまう。




