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遙かなるシアラ・バドヴィアの軌跡  作者: 乾 隆文
第一章 第五節 身の上が暴露されて
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1-5-3.イェレラの町の奇跡の画







 そこでようやく、ティリルにも周りを見渡す余裕ができた。画架に立てかけられた、何枚かの油彩画。青いもの、赤いもの。様々。


 ほぅ、と一つ息を吐くと、ヴァニラが今度はいたずらっぽく目を細めて、「気になる?」と聞いてきた。


「私や、同じく美術学を受けてる人たちの絵。フェルマール先生のもあるよ。あそこの、ハース・ウェリアと二人の弟子たちの旅路を描いた絵。素敵だよね」


 説明してくれた。ハース・ウェリアは、分立統合歴の歴前三〇年程の時代に現れた宗教家で、ソルザランド王国国教たるハース教の開祖。そのフェルマール師とやらは宗教画を描く人なのか、とティリルは小さく何度か首を動かした。


「そうだ。ヴァニラさんの作品はどちらですか? ぜひ見せて頂きたいです!」


 微笑みながら、振り向いた。ヴァニラはかなり恥ずかしそうに首の後ろを手で掻きながら、「あー」とか「んー」とかしばらく呻いていたが、


「ええとぉ、私のは、まだ全然仕上がってないんだけどぉ」


 頬を少し赤くしながら歯切れの悪い物言いで、結局最後には見せてくれた。部屋の奥の、木箱がいくつか積み上げられた隅の辺りに立っている、大きめのキャンバスを指差した。


「これですか? わ、すごい!」


 先程の絵を見たときよりもずっと素直に、感嘆の息が溢れ出た。深い碧、淡い翠、様々な緑が折り重なった、これはきっと森の中。鬱蒼と生い茂る木々の真ん中に、ほんのりと歩みを進めている赤っ毛の女の子。その周りには、赤や、青や黄や、いくつもの小さな光。不思議な光を追って、森の中に迷い込んだ女の子。そんな様子だった。


「幻想的ですね……。なんだか、見惚れちゃう……」


 吐息とともに零れた感想は、紛うことなき本心だった。


「私なんて下手糞だからさ、ホントは見せるの、恥ずかしいんだけど」


「そんなことないですよ! 私、この絵大好きです。上手いとか下手とかはよくわかりませんけど、この絵すごく引き込まれます」


 褒めちぎると、ヴァニラはすごく恥ずかしそうに何度も唇を舐めながら、「あ、ありがと」と小さく礼をくれた。こんなヴァニラを初めて見る。ティリルは胸の中から、さっきまでの不安と恐怖が丸ごと吹き飛んで、代わりに暖かい春風のような気持ちが吹きこんできているように感じた。


 素敵な絵を鑑賞できたこと。そして、可愛らしく照れたヴァニラを見ることができたこと。それだけでもう、今日は幸せな気分で眠りにつけそうな気がした。


「ヴァニラさんは、その先生とは違って、宗教画は描かないんですか?」


 へぇ、はぁ、と隅々までその絵を眺めながら聞く。背後から届くのは、「あー……」とまたも歯切れの悪い嘆息。


「えーとぉ、……一応、その絵もハース神話をモチーフにしてるんだよね……」


「え、そうなんですかっ?」


 気まずさに襲われるティリル。


「ほら、イェレラの町の説教の話、あるでしょ? どんな絵を描こうかって悩んだときに、私あの話が好きだなって思って」


「イェレラの……? それって、確かハース様がいらして町で説教をされたときに、それを聞いていた女の子が、次の日には突然魔法が使えるようになったっていうあの話ですよね?」


 そうそう、ヴァニラが元気よく返事をする。ティリルは首を傾げた。あの話のどこかに、森の中の光景があっただろうか。


「あの話の女の子は、説教を聞いたその日の夜に、夢で御使いの姿を見て、それから魔法が使えるようになったっていう話だったでしょ? だからこの絵は、その夢の中のイメージ。神の御使いに導かれて、森の奥で魔法の力を手に入れた。そんな夢だったんじゃないかなっていう、私の解釈なの」


 ああ、なるほど。ティリルは大きく頷いた。


 言われてみればこの森は、夢の中の森という表現がぴったりだ。赤や青の光は、神の御使い、というよりは、ティリルの中にある精霊のイメージにかぶる。ウェンデで呼ぶところの妖精。自分の心の中にある世界に近しいものを感じるから、この絵のことが好きなのか。


 そして偶然も重なるだろう。イェレラと言えば、ティリルの故郷たるユリの旧い名前だ。


「この絵、まだ途中なんですか?」


 目を離さぬまま聞いてみる。一瞬でも目を逸らしてしまうと、その隙に女の子が動いてしまいそうで、その瞬間を見逃したくなくて、目が離せなかった。


「うん。まだ全然。夏には仕上げたいと思ってるんだけどね」


「このままでもいい絵だと思いますけど、まだ何か描き加えるんですか?」


「うん、描き加えるっていうかね――……」


 何が足りないか自分でもよくわかってなくて。何かが足りてないのは感じてるんだけどね。相変わらず頭を掻きながら、しかし表情だけは少し真面目になって、ヴァニラは答えた。その表情は、ティリルの知っている友達の顔ではなくて、ああ、彼女は絵描きなんだなと改めて感嘆した。


「ああ、ごめんごめん。つい、絵のこと考え込んじゃった。ティリルお腹空いてない? 結局お昼食べ損ねちゃったじゃん」


 唐突に、顔を上げて現実に戻ってくるヴァニラ。ティリルもそれでようやく、絵から視線を外す。


 もう、昼休みが終わる時間か。頭を振って、背筋を伸ばす。この後は、本当は比較文明論の授業があったが、今日はとても落ち着いて講義を受けられる心境ではない。師の研究室に戻って先程起こったことを相談しようと思っていたが、さて、先に食堂に行ってご飯をすませてしまおうか。「ヴァニラさんはどうするんですか? この後は授業は?」聞いてみる。


「私は、授業はないけどこのあと少し制作するつもり。まだまだ完成には程遠いけど、この絵をもう少し進めたいんだ」


「そうですか。……完成したら、ぜひ見せてくださいね」


 もちろん。ヴァニラは笑って、それから一拍置いて、


「あ、だけど、もしあれだったら研究室まで一緒に行くよ? あの変なのが、まだどこかでティリルのこと待ち伏せてるかもしれないし」


 提案してくれた。その言葉に、ティリルは「あ」と声を漏らした。


 絵の話をしている間に、ずいぶんと落ち着くことができたようだった。冷静に考えれば、恐怖と言うより混乱のほうが大きかったのかもしれない。一呼吸置いて、不安を押し込めて、他のことを考えていたらそのうちに、気持ちはほとんど凪いできた。


 まだ例の男に対する不気味さはあった。だがそれで、ティリルの秘密を暴いて、そこから何ができるのか、と首を傾げれば、別にできることはそう多くもないだろうと楽観することができた。


「いえ、大丈夫です。そんなに遠くないですし」


 ここまでぼんやりとヴァニラに連れられてきたので、実際の研究室までの距離はよくわかっていなかった。それほど広くない学園の敷地内では高が知れている、という程度の「そんなに遠くない」だ。


 ただ、これ以上ヴァニラに甘えてしまうのも気が引けた。


「ティリルが大丈夫なら、じゃあ私は行かないけど」


「はい、心配しないでください。もしもまた目をつけられたら、走って逃げますから。こう見えても足は速いんですよ?」


 ぐっと拳を握って見せる。ヴァニラはふふっと笑って、それ以上はついて行くと言わなかった。じゃあまた明日ね、とティリルに手を伸ばして微笑んでくれた。


 そしてティリルは美術室を後にした。落ち着いて、また外から見ると、不思議な建物だった。明らかに他の授業棟、研究棟や魔法実践場に比べ、古めかしくくすみ、傷み、ひょっとすると腐ってすらいる。なぜ美術室だけこの建物にあるのか。ここだけ時の流れが違うようにさえ感じられた。


 不思議な気持ちで校内を歩く。既に落ち着いた恐怖と混乱と、心奪われる素敵な絵を見た高揚と興奮。不思議と、昼食を食べ損ねた空腹は感じなかった。


 後になって気付いたことだったが、この日を境に、ヴァニラはティリルに対して敬語を一切使わなくなった。それでもティリルは、ヴァニラを呼び捨てにすることすら、まだしばらくはできそうになかった。





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