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遙かなるシアラ・バドヴィアの軌跡  作者: 乾 隆文
第一章 第四節 魔法の才能
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1-4-6.ラクナグ師の研究室へ







 その日の午後、ティリルはラクナグ師の研究室の前に来た。


 心臓がバクバクと高鳴る。怖い気持ちが拭えない。


 ノックをしようと握った手の拳が、なかなか動かせない。


 何度も何度も深呼吸し、ようやく扉を叩こうともう何度目かの決意をして腕に力を込めたところ、そこで扉が勝手に開いた。中から、強面の壮年が扉を開けたのだ。


「いつまでそこに立っているつもりだ。早く入れ」


 出鼻を挫かれた。不意を打たれて扉を開けられたことと、ここでしばらくの時間を空費していたことを知られていた事実に、頭が混乱し言葉を紡げなくなった。


 ほとんど人形か何かのように、思考が停止したまま、言われるがままに室内に入る。フォルスタ師の研究室と違い、本や書類はとても整然と片付けられており、壁際には書棚と並んで食器棚も立っている。広さも、フォルスタ師の部屋とおよそ同じ程度の広さであろうにもかかわらず、倍ぐらいあるように感じられる。


「まぁ、座れ」


 意外にもラクナグ師は、ティリルに椅子を用意してくれ、香茶も入れて差し出してくれた。沸かしたての湯でなくて悪いが、まだ十分に飲めると思う。そんな気遣いまでしてくれる。


 凍りついていた自分の気持ちが、単純なことに、少しずつ解されていくのを感じた。


「フォルスタ師からの話は聞いている。お前に特殊な事情があることはある程度理解した」


 自分の分の茶を用意し、自らもまた椅子に座りながら、開口一番。表情こそきついままのラクナグ師だったが、なるほど事情を理解してくれて態度を軟化してくれたのか、とティリルは安堵の息を吐いた。


「とはいえ、俺はお前を特別扱いするつもりはない」いや、そうでもなかったらしい。「どんな理由があろうと、魔法の実技レベルが低い者に実習課程の成績をよくつけることはできない。当然だろう?」


「……はい」


「それに、先日のように他の者に影響が出る場合もあるしな。何よりお前自身、言い訳をするためにわざわざこの大学まで来たわけではないだろう?」


「それは……、そうです」


 ぐうの音も出ない正論。先まで師に抱いていた徒な恐怖心はもうなかったが、代わりに、辛辣さを感じるほど真っ当な論理に、息苦しい圧迫感を覚え始めた。


 息遣いがまた乱れてきたのを目敏く見つけられてしまったか。ラクナグ師は一つ小さく溜息をつき、立ち上がって木の器を一つ持ってきた。ティリルの手のひら一つ分ほどの大きさの、ざっかけない器。


「試してみろ。まずは水だ。その器を満たすんだ」


「あ、は、はい」


 ガタン、と椅子を弾くようにして立ち上がり、ティリルはその器を受け取った。勢いが余ったため慌てて椅子を戻そうと振り向いたが、椅子は少し後ろに追いやられただけで無事だった。


 器を机に置き、何度も深呼吸を繰り返す。氷と違う。水ならばティリルもそれほど苦手ではない。小さな器を満たすくらいは、問題なく作り出せるはずだ。


「……精霊さん、どうかお願いします。私に、器いっぱいの水をください」


 幽かな声で囁いた。


 やがて、ティリルの掌中に小さな湧水が生まれ、手のひらの中に収まりきらなかった水が、こぼれて器に落ちて行った。


 ほう、と深く息を吐く。


 そして、びしょ濡れになった両の手を器の上でそっと合わせ、恐々とラクナグの顔を見つめた。


「次に氷だ。なるべく大きなものを出せ」


「……はい」


 答える声が暗くなる。重い気持ちで試した結果は、昨日の実習中と同じであった。辛うじて、両手の上には小指の先程度の小さな氷の粒。それ以上大きなものは、ティリルには召喚できなかった。


「なるほど。基素なら、ある程度は扱えるのだな」


「……はい。複雑なものになると、全然だめで……」


 ふむ、と顎に手を添え、難しい顔を始めるラクナグ師。その表情はそう、ちょうど今朝見たフォルスタ師のものと同様で、答えを出すことをためらっているように見えた。


 何を悩んでいるのだろう。ひょっとして、自分が聞いてしまうとまずい何かが、師たちの心中に思い浮かんだのだろうか。たとえば、自分は魔法使にはまずなれない、とか。


「とりあえず確認しておく。魔法を使うときに、心がけていることは何だ? その、『精霊さん』という呼びかけは何のつもりなのだ?」


 詰問され、う、と息をつまらせる。以前、幼馴染のウェルにも笑われた、幼稚な癖。


「その……、子供の頃に読んだ本の影響なんです。魔法っていうのは目に見えないたくさんの妖精、『精霊』って呼ばれる存在が、使う人の心に応えてくれるからだって。だから、魔法を使うときに『精霊さん』に感謝をしながらするべきなんだって」


「ウディネイアの『精霊の森』か。子供の頃に読んでいたとは驚きだな。そうそう手に入るものでもあるまい」


「え、ご存じなんですか!」


 驚いて、ティリルはばねで弾かれたように背筋を伸ばしてしまう。


 笑われるか、叱責されるかと思っていたのに、まさか理解されるとは思っていなかった。今までに一度も、この本のタイトルを知っている人間に出会ったことなどなかったのだ。


「馬鹿にしてるのか? ウディネイアはウェンデ国の自然魔法史に於いて重要なファクターとなる人物だ。最終的にその考え方が国に認められず国外追放となったが、ソルザランド魔法科学史を学ぶ上でも、要点となる書物を押さえておくべきだぞ」


「そうなんですか! 私、ただ物語として好きだっただけなので、書いた方の出自などは全然知らなくて」


「物語とはどこで出会ったのだ?」


「あ、はい。父の書棚にありました。父はよく、物語の本を集めていて、私にも自由に読ませてくれました」


「良い父君(ふくん)を持ったのだな」


 はい!と大きな声で返事をした。父を褒めてくれたことが、何やら無性に嬉しく、脇腹の辺りがむずがゆい感覚に陥った。


「ウディネイアの魔法への考え方は、当時のウェンデではアニミア教義にそぐわないとされたが、現代の精霊論に当てはめれば非常に有用だ。精霊の捉え方を身に付けているのなら、魔法行使学の基礎を押さえていなかったとしても短期間で飛躍的に実力を伸ばすこともできるかもしれない」


「え、本当ですかっ?」


「もう一度確認する。魔法を使うときに心がけていることは何だ?」


 鋭い目で、椅子の上からティリルの顔を見上げてくるラクナグ。


 いまだ緊張はするが、恐怖心は完全になくなった。ラクナグというこの教授が、最初こそ怖い印象ばかりだったが、その中身を知れば知るほど、暖かく奥深い内面の持ち主だと理解できた。


 ゆっくりと、心の中を隅々まで探りながら、答えた。


「氷を自分の手のひらの中に生じさせてほしい、と、精霊たちに願うように、その想いを届けるように意識しています。胸の内にある気持ちを、自分の外にいる精霊さんたちに受け取ってもらえるように、と」


「む。やはりな。知識がないため根本的な原理を理解できていないが、しかしいわゆる正解に近いところまでは自力で近付いているようだ」


 ラクナグは立ち上がり、ティリルの背後に立って、その頭をがっしと掴み抑え込んだ。混乱するティリル。抵抗を早々に諦めると、自然視線が自分の手のひらに向けられた。もう一度やれということかと察したティリルは、ゆっくりと手のひらでお椀を作った。


「勘がいいな。ただし、念を放出するのは胸の内からではない。頭の中からのイメージを使ってやってみろ」


「頭の中から、ですか?」


「そう。そして精霊に届けるだけではない。精霊にそれを伝え、言うことを聞くように強要しろ」


「え、で、でも……」


「いいから言われたとおりにするんだ」


 強い口調で言われ、戸惑いながらも目を瞑る。それほど強硬な気持ちで精霊に心を委ねたことはないけれど、師がそう言うのなら、試す価値はあるのだろう。


 静かに、腹部の辺りに力を込めながら、意識を頭に集中させる。


「……精霊さん。どうか、私の言うことを聞いて。ここに氷をください」


 唱える癖は大きくは変えられなかったが、自分なりに強い口調にはした。そして、ゆっくりと目を開けると、そこには先程よりずっと大きな、大粒のイチゴ程度の大きさの氷が、静かに乗っていた。


「え、私、できた……」


「先程よりはずっとましだな。たったこれだけで、ずいぶん違うものだろ?」


「は、はい!」


 嬉しくて、押さえられていたラクナグの腕を解いて振り返り、師に笑顔を向けた。少しだけ、あの仏頂面のラクナグが、気恥ずかしそうに狼狽し、目線を逸らしたように思えた。ほんの一瞬だけだったが。


「論理学は取っているんだろう? 現代の魔法論理学の根幹たる精霊論に於いて、精霊は生物ではなく、目に見えないほどの微細な粒子であるといわれている。そして、その粒子が人の頭から発せられる何がしかの意図に反応し、魔法と云う現象を生むのだ。その原理を意識しただけで、魔法の実力が格段に上がったという人間は後を絶たず、この仮説は現代ソルザランド魔法学で極めて有用と認められている。

 お前も、今自分で経験したとおりだろう?」


「はい! こんなにすぐに上達するなんて、感動しました!」


 嬉しくて、何度も何度もラクナグに笑いかけ、それから繰り返し、手の中に氷を呼びだした。魔法で呼び出した氷は意識を向けるのをやめるとあっという間に溶け、水蒸気となって空気中に霧散していく。実物の氷が解けるのとは比べ物にならない早さだが、それでもティリルの手のひらの中には、大きな氷の球が、山盛りに積み上がってさらに数を増やそうとしている、ラクナグに肩を叩かれ「それくらいにしておけ」と言われなかったら、机の上を氷の球でいっぱいにしていたかもしれない。


「そうだな。とりあえずこれからしばらく、風曜日の実習の後にここに来い。個人学習を進めないと、単位を取るのは難しそうだ」


「わかりました。ぜひ、お願いします!」


「私からも伝えておくが、このことはフォルスタ師にも伝えておけ。お前の専任講師だからな」


「はい! もちろんです!」


 強く自覚できる程、満面に喜びの広がった笑顔。言われたことへの返答も、即座に明朗な声で発することができる。ラクナグ師の視線と口調は依然として硬く鋭いままだが、それが数十分の会話で、心地よいとさえ思えるほどに、ティリルは彼のことが好きになってしまった。


 おかげで、ラクナグ師がまだ怪訝な表情を浮かべているのに気付いているにもかかわらず、気付かない振りをふと決め込んでしまった。


 その後、いくつかの言葉を交わして、ティリルは師の研究室を後にした。


 フォルスタの研究室は下階。彼への報告もしなければ。と言おうか、ぜひとも報告したいと考えたティリルは、足早に廊下を、階段を歩いていく。歩きながらも、右手の指の間を風を通し、うずうずと弄んでいる。いつもより細かく風を操作できる。胸の下の辺りがくすぐったくなり、ついつい笑みこだれそうになってしまった。


 フォルスタ師に報告したが、彼は興味薄そうに小さく一つ頷くだけだった。


 代わりに、脇にいたダインが大仰に喜んでくれた。肩を叩き、両手を取って、「やったじゃん、さすがだね!」と大声で騒ぎたててくれた。


 ティリルも珍しく大きな声で「ありがとうございます!」とはしゃいでしまった。危うく、床に立ち並ぶ本の塔をいくつか倒してしまう勢いだった。


 早く部屋に戻って、ミスティにも報告しよう。研究室を飛び出した今度は、廊下を走り出しそうになって、はやる気持ちを抑えるのにとても苦労した。





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