1-4-2.彼女は絵を学びに
そんなわけで、初めて足を踏み入れた食堂に、ティリルは瞬間、息を飲んだ。
今までに講義を受けたどの教室よりも広い敷地。机がびっしりと並べられ、ざっと眺めるに三百人は座れそうな長椅子がそれに寄り添う。その広大な空間に、ひょっとしたら三百人を超えているんじゃないかと思われるほどの人間が、好き勝手に話をしながら食事を取っていた。
当然、故郷ユリの大衆食堂でもこれほどの人間を見たことはない。こんな大人数が一度に食事を取ることがあるなどと、ティリルは想像すらしたことがなかった。
「あ、ほら、あそこが空いてますよ。座りましょう」
ティリルの感嘆には気付きもせず、ヴァニラが目敏く空席を見つけ出し、ティリルの背を押してそちらに導く。広い食堂の隅の方。女性四人グループと、男女二人組の間のスペース。二人はそこに座り、座ったかと思うとヴァニラがさっそく立ち上がった。
「よければ私が買ってきますので、席を取っておいてください。何がいいですか?」
慣れた様子のヴァニラに、しかしティリルは手許に品書きもなく、即座に答えることができない。悩む時間も惜しいとはわかったので、「ヴァニラさんのお薦めのものをお願いします」と、丸投げしてしまった。
「本当にいいんですか?」
「ええ。私、この食堂に初めて来たので、何が美味しいかとかよくわからないんです。ぜひお願いします」
それじゃあ、とヴァニラは笑い、厨房の方へ向っていった。
先ほどの授業のノートを見返しながらヴァニラの帰りを待つ。やはり混雑の影響か、彼女が戻ってくるまでに、かなり時間がかかったように感じた。
「任されちゃったから同じものにしちゃいましたけど、よかったですか?」
そう言って、ヴァニラが自分とティリルの前に置いたトレーには、マッシュルームとチーズの入った衣揚げ。とても美味しそうな匂いをあげている。
「ありがとうございます。美味しそうですね」
「ええ、とっても美味しいんですよ。私のイチオシです」
「あ、そうだ、お金……」
「後でいいですよ。冷める前に食べちゃいましょう」
促され、ティリルもスプーンを手に取った。食堂のクロケは格別に美味しいわけではなかったが、なんだか父親の作ってくれた料理を思い出す、ほっとする味だった。
食事をしながら、ティリルはヴァニラの話をたくさん聞いた。彼女は魔法の知識や技術を向上させるべくこの大学に来たわけではないということ。故郷であるフォルト市の教会で絵の勉強をし、より一層自らの筆の力量を研鑽すべく首都サリアへやってきたということ。
「子供の頃に一度だけ、家族旅行でこのサリアに来たんです。その時に、大聖堂で目にしたデルサルタの『聖節の儀』……。一目で心を奪われ、私もいつかこんな、誰かを感動させるような絵を描いてみたい、と思うようになったんです」
そうなんですか、と生返事をする。その絵を見たことがないティリルには、その感動を共有することはできなかった。ただ、そんなに幼い頃に自分の夢を自分で見つけた、というヴァニラのことを、すごいと思う気持ちは強かった。
「この大学には、美学研究で有名なフェルマール先生がいらしたので。それで私も、この学校に入ろうと決心したんです。かのデルサルタも晩年はこのサリアの町でたくさんの作品を遺したそうですし」
「そうなんですね……。なんだか圧倒されちゃいます。私、ヴァニラさんほど強い思いでここに来ていないなって思うから……」
「いや、そんなことはないですよ。私はただ単に、自分がやりたいことをやるためにここに来てるんです。それは、ティリルさんも同じなんじゃないですか? しかもティリルさんは、普通の人と違うこの時期に編入までしてきて」
沈黙で答える。やりたいこと――。いや、自分はただ、ウェルに引きずられてここまで来ただけだ。まだ何も達成していないし、何も見つけていない。
「私、私は――」
答えを絞り出そうとして、できなかった。首を斜めに傾げ、優しい微笑みを口許に添えながら、ティリルの言葉を待つヴァニラ。その無言の圧力が、ティリルに重く圧し掛かってきて、耐え切れず、ごまかした。
「私は、人の勧めでここに来ただけですから。勉強も嫌いじゃないですけど、今はそれより、都会の空気やたくさんの人たちに触れられて、驚く気持ちでいっぱいです。やりたいことなんて、まだまだこれから見つけていかないと、です」
きょとんとヴァニラの目が丸くなった。
なにを疑問に思ったのか。だがその先を、ティリルはあまり聞きたいと思わなかった。
「あ、それより、もう急いで食べちゃわないと、次の時間が始まっちゃいますね」
そう、ごまかして手を動かした。
「え、あ、本当。もうそんな時間ですね。ごめんなさいです、つい話しこんじゃって」
「そんな、謝ることなんて。私ここに来てまだお友達があまりいないので、誰かとお昼を食べるなんて久しぶりで。とっても楽しかったですよ」
食べながら、飲み込んだ合間を縫って会話する。確かにクレム・クロケも美味しかったが、それ以上にヴァニラと一緒だった時間が嬉しかった。最後は何となく気まずくなってしまったが、これに懲りずにまた昼食を付き合ってくれるといいなぁ、とそんなことを考えていた。
食べ終わり、食器をカウンターに下げて、食堂を出る。
「ティリルさんは、次の授業は?」
「私は次は実技です。ラクナグ教授の『召喚魔法実技演習』」
「そうですか。私は次は授業じゃなくて、フェルマール先生の元で制作です。じゃあ、お互い頑張りましょう」
はい、と元気に頷いて、ティリルはヴァニラと廊下で別れた。友達ができた。そのことに、自分でも信じられないくらい浮足立っていた。
しかし、次の授業では――。




