0-2-1.町に着いて
ソルザランド王国、ユリ市。王都サリアの北に聳えるユレア山脈の山間に建つ、小さな村。
ティリルとウェルの住む家は、そこから更に数刻歩いて辿り着く山の中にあった。決して生活しやすい場所、というわけではないのだが、そんなところに居を構えたローザにはそれなりの理由があったらしい。幼い頃から山野で生活し、お互いの家族の他に殆ど人と会う機会がない環境にあったティリルもウェルも、最早不便など感じなくなってしまった。
いつもと同じく自分たち以外に踏み均す者のない山道を、二人連れ立って歩く。
先んじるウェルは、剣を背に携え。幼かったウェルの剣の師は、今は何処へと旅立ってしまったティリルの父、ユイス・ゼーランド。旅立ちの折に彼が預けた古い諸刃の剣を、恐らくウェルは何よりも大切にしていた。
後につくティリルは、まるで魔法使のような黒い外套とスカート、それに白いシャツという出で立ち。母のことを殆ど語らなかったティリルの父親ユイスだったが、唯一母の形見だと言ってティリルに渡してくれたのが、この装束だった。
空は穏やか。昨夜の雪雲は何処、青一色に染まる快晴。気温もまた随分と暖かく落ち着いて、山野はすっかり春の姿を見せていた。
心地よい薫風にその長い髪を任せながら、ティリルの足取りは頗る軽い。気持のよい町への道。ウェルの後をついて歩くちょっとした高揚感。読書の時間を割かれてしまったのは残念だったけれど、いざ空の下へ出てみれば心躍る爽快さ。誘ってもらえたことをウェルに感謝すべきかもしれない。
「その上お昼までおごってもらおうなんて、ちょっと図々しすぎたかな」
軽く反省して舌の先を出すが、ウェルにはその顔を見せたりも、その言葉を聞かせたりもしない。今日のお礼に、いつか別の日に今度は自分がおごってあげればいい。その時には、今度は自分がウェルを町に誘う理由も出来る。そんなことを思った。
「いい天気だね、ウェル」
前を歩き、黙りこくるウェルにティリルは言葉を向ける。誘ってくれてありがとう。それくらいは伝えてもバチは当たらないだろう、と考えながら。
「ん……」
「すごい気持いいね。空が透き通ってて、風も暖かくて」
「ん。そうだな」
「昨日は雪だったのに。一晩でこんなに晴れちゃうなんて信じられないね」
「ああ、そうだな」
ウェルは何やら考えごとをしているのか。聞いているのかよくわからない生返事をよこす。
「ねぇ、ウェルってば。人の話聞いてる?」
「んあ? 聞いてるよ、ちゃんと。天気の話だろ」
「や、えと、まぁそれはそうなんだけど……」
そう言われると身も蓋もない。別に天気の話がしたいわけではなかったのだが。
結局二人はかみ合わない会話を繰り返すまま、ユリの町の市場に辿り着いた。いつも二人で歩くときは、下らない話を欠かさない道程。ウェルが「町へ行ったらあの店を見たい」と言ってはティリルがその趣味に呆れ、ティリルが「あそこの店のケーキを食べたい」と言ってはウェルが食傷がる。意味などないと思っていたやりとりだったが、そんな会話がないままに辿り着いた町並みは、いつもより何色か色合いが足りないように感じられたのだった。
市場は、盛況だった。
ようやく並び始めたらしい春野菜や山菜、冬眠から覚めた獣の肉。まだまだ贅沢な食材と言うほどの物は見つからなかったが、冬の間の慎ましやかな食卓を思えば、ティリルでなくともそれらが随分なご馳走に見えただろう。
苦手な人ごみの中、それでもティリルとウェルは気付けば、持って来た大きめの布袋にいっぱいの食材を買い込んでしまっていた。
「ちょっと買い過ぎたかな」
袋を右の肩に背負いながら、ウェルが口を開いた。
「だって何見ても美味しそうに見えちゃうんだもん。今夜はどうしよっか。ウサギのシチューにしてもらおうか。あ、山菜の揚げ物も久しぶりに食べたいなぁ」
ティリルはティリルで、ちゃんと自分の分担の袋を両手でぶら下げている。改めて、随分と買ったものである。
「食い意地張ってるな。これから人にタカって美味いもん食べようってヤツが」
「そ、それはそれだよぅ。美味しいものを食べるのって幸せなことでしょ。さ、ほらお昼食べに行こ」
ウェルの手を取って引っ張ろうとしたが、ウェルはそれについて動こうとはしなかった。
「待てよっ!」
びくり、とティリルは体を強張らせる。ウェルが怒鳴る。その声は、雰囲気は、たった一瞬で痛いほどの緊張感を帯びたものに変っていた。
「……え。……ウェ、ウェル?」
「あ、いや、えっと、その……。ま、まだ俺の用事が終わってないんだ。食事の前にもう一軒寄らせてほしくてさ」
そして、すぐに緊張が緩む。ウェルの笑顔は多少ぎこちなく、怒鳴ってしまったことに対する後悔もある様子。それ以前に、ぞんざいなフリをしてティリルに気を配ってくれている、そんな暖かさを隠し持った口調はいつもと同じウェルだった。
「あ、そ、そっか。そうだよね。何か用事があるって言ってたんだもんね。ごめんなさい、私、気が逸っちゃって」
あはははは。軽く笑い飛ばす。ウェルは何も言って返してはくれなかったけれど、表情を緩ませ微笑んで返してくれた。
ぞんざいなフリをしてそれでもティリルに気を配ってくれている、そんな暖かさを隠し持った口調はいつもと同じウェルだった。――ティリルは心から、そう信じたがっていた。