1-3-1.早朝の出会い
目が覚めたのは早朝だった。
隣室のミスティは、まだ眠っている様子だった。カーテンを開ける音を立てるのも申し訳なく思ったティリルは、そっとその裾を持ち上げ、隙間から窓の外を覗く。仄白い朝靄がガラスの向こうに広がり、日の昇り切らない静かな朝の、幻想的な雰囲気を醸し出している。
やはり緊張しているらしい。あれほど疲れていたはずなのに、こんなに早く目が覚めるなんて、まだまだ自分の今までの生活ペースは戻ってきていない。
もう一度眠りつくこともできそうにない。静かにベッドから起き上がり、外出着に着替えケープを羽織って、忍び足で歩き始めた。リビングを素通りし、部屋の外へ出る。後ろ手にぱたと戸を閉めると、ふんわりと冷たい風が髪を撫でていった。
薄墨色の世界。白い息。まだ春とも呼べぬ晩冬。それでも故郷のユリに比べたら、まるで寒くはなかった。
寮の階段を静かに下りて、外に出る。誰かいたらすぐに帰ろうかと思ったが、人の姿は見当たらない。ではと思い、少し校内を散策してみることにした。広大な敷地、道に迷うのは昨日経験したとおりなので、散歩コースは昨日来た道。校門までの道を確認して、また戻ってくる。それだけにしようと決めた。自分でも、珍しいなと思う。知らない場所を自分一人で探検するなんて、あまりする方ではない。多分、ここまでいろいろなことがありすぎて、神経が麻痺しているのかもしれない。少し一人になりたい、そんな思いが胸の中に蟠っていたのだと思う。そうすると、今日たまたま朝早く目が覚めてしまったのは、あるいは無意識が自分にそうさせたのだろうか。
ひとつ大きく伸びをしながら、二歩、三歩とスキップを踏んでみる。静かな朝まだきの空気に、靴の音がカツカツと響いた。口許から、笑みがこぼれた。
赤と白のタイルの上をのんびりと歩き、事務所の脇を通ってその先へ。気が付けば無花果の木の立つ校門前の小さな広場に迫っていた。ここからなら、校門も見える。目的地まであっという間だった。あまりに呆気ないので、少しこの広場で時間を使っていこうかな。そう考えて脇のベンチに目を向けたところ。
人がいるとは思わなかった。
「おはよう。君も、朝の散歩?」
黒髪を肩より少し上辺りに切り揃えた青年が、ベンチの手すりに両手をかけ、足を組みながら悠々と座っている。薄暗い朝靄の中、どんな表情でいるのか、こちらを見ているのか、そんなことはわからなかった。
「あ、あの、ご、ごめんなさい。人がいるなんて思っていなかったもので……」
「へぇ? 何で謝るのさ。人がいたら君がここに来ちゃいけないわけなんかないだろ?」
反射的に謝ると、そんな、少し笑ったような返事が送られてきた。
その青年はよっと勢いをつけて立ち上がり、ゆっくりとティリルの前に歩いてきた。身長は、ティリルより少しだけ高い。少しだけ高いだけなので、ひょっとしたらミストニアと同じか、少し低いくらいかもしれない。表情は、笑っていた。まるで、かわいい子ネコでも見つけたかのように。
「それとも、君は本当はここにいちゃいけない人だったりするの? だから、制服も着ずに人目を盗んでこんな時間に散歩していたとか?」
「え、あ、いやそういうわけじゃないですっ。私、昨日編入してきたばかりで、まだ荷解きも碌にしてないもので、その、つい私服を着てしまったんですけど、えっと」
「なら、悪いことはなんにもない。堂々と、おはようって挨拶返してくれればそれでよかったんじゃない?」
「あ、あははは……」
それもそうですね、なんて頭をかきながら苦笑い。青年は、ティリルの耳元でくすっと笑い、「僕はもう行くから。君はゆっくり散歩を楽しむといいよ」と言い残してすれ違って行った。
「え、そんな。私がもう帰りますから、あなたはもっとゆっくりしていってください」
「あはは。ありがたいけど、もう体が冷えきっちゃっててね。早いとこベッドに戻って二度寝しようと思ってたとこなんだ」
そう言ってふいふいと右手を振り、その場を去る青年。ティリルはその背中を、ただ黙って見送った。ああ言われてしまってはそれ以上引き止めるわけにも行かなかったが、気を使わせてしまったことはティリルにだってわかっていた。
せっかくのひとりの時間を邪魔してしまって申し訳なかった。白い息を吐きながら、自省する。そしてもう一度、校門の方を見た。
校門の外、街の上に、オレンジ色の朝日が昇り始めていた。太陽が世界を一番に照らし出す時間が、ちょうど来ていた。
編入二日目にして、ティリルはさっそく授業を受ける準備をしなければならなかった。魔法大学は自立と自律によって成り立つ。そんなキャッチコピーを聞いたのは、昨日の事務受付の女性からだったか。要するに、自分で動かなければ誰も助けてはくれない、というだけの話だろう。
「ごめんね。本当は今日一日くらい、私もついていてあげたいんだけど」
謝るミスティに、そんなの気にしないでください、と両手のひらをぶんぶんと振り回す。ミスティも、当然自分が受けなければならない授業がある。しかも本人曰く、今日は特に重要な講義と研究会が朝から入っていて、一つも逃すことができないんだ、とのこと。「せめて明日だったらなぁ」と、何度も悔しがってくれたのだが、そこまでにミスティがしてくれたことだけでもティリルは十分、感謝を抱いていた。
魔法行使学――実学を専攻したいと志願しているティリルが受けるべき授業を、わざわざ紙に書き上げてくれ、さらに今日一日のスケジュール、今日の分の授業が何時からどこの教室で行われるのかを、すべてまとめて教えてくれた。
「あと、専属教員は多分フォルスタ先生のところがいいと思う。あまり学生の人気が集まる教授じゃないみたいだけど、実学専攻でかなりの実績を上げているし、シアラ・バドヴィアの研究もかなり進めているみたいだしね」
そんなことを、昨日の夜遅くまで調べてくれていたのだろうか。ミスティは笑って、「これくらいは全部頭に入ってるわよ、調べるまでもないわ」と言ってくれた。
朝食は、ミスティが貯蔵していたパンと干し肉で簡単に済ませた。部屋のキッチンには薪で火をおこす炉があったが、今朝は使っていない。時々は使うけれど、朝から火を焚いて温かい朝食を作るなんて時間がなくてできないし、面倒だから夕飯もつい校内の売店で買ってきてしまう。ミスティの言い分だった。
「あ、炉に火をくべるくらいなら、私でも魔法でできると思います」
そう提案すると、ミスティは手を叩いて喜んだ。「やった! じゃ、明日からはあったかいお茶と、玉子付きの朝食が味わえるわけだね!」満面の笑みを浮かべてくれるミスティが、ティリルは嬉しかった。
朝食を食べ終わり、いよいよ外に出る支度をする。
学園の敷地の中心に、一番高い時計塔がある。その天辺で、鐘が鳴り響いた。それを合図にミスティとティリルは部屋を出た。




