1-2-5.高級学生食堂「リスティラ・エル・ラツィア」
やることは沢山あった。
まずは事務課で受け取った布袋をほどき、中のものを確認する。
赤い汚れた表紙の、小さい冊子は『魔法大学学校則ならびに学生生活の手引』なるもの。青い背表紙の、一回り大きく厚みのある白紙の束は、講義の内容を控えるためのノートブックだ。黒炭を芯にした木製のペンも入っている。今までに一度も手にしたことがなかった高価な「筆記具」に、ティリルはしばし感動を覚え、指先を震わせた。
それから、制服が一式。白いブラウスに黒いスカート。そして赤いリボンタイと、黒いベルト。入っているのはひと揃いのみで、二着目以降は各自必要に応じて購入するように、と事務で説明も受けていた。替えの服を買うまでは汚せないから緊張するな、などと考えていた。
この布袋の中身一式の、どれか一つだけを取り上げてもティリルを陶然とさせるに十分な魅力を持っていたが、とりあえず今は赤い冊子の解読から始めることにした。編入に於いての手続きを理解することが先決だ、というのは、ミスティの助言とティリルの考えの一致するところだった。
基礎的な知識常識を備えることを目的とする『予科』が、学院側が定めたカリキュラムに則って勉学を進めるのに対し、より各分野における専門的な考察を深めることを目的としている『本科』は、学生側が受講する講義を選択する形になっている。右も左もわからないティリルが、それでも明日から一週間のうちに自分が受ける講義を選択、決定し、スケジュールを自分で組み立てて事務に登録を申請しないといけない。ミスティにも立ち会ってもらって、書類を読み解いた中で一番重要だと感じられた事柄がそれだった。
もちろん他にも、必要なことはまだまだあった。学園内の規律を覚えること。学生寮での生活の決まりを覚えること。教授連や研究員の顔を覚えることも必要になるだろう。また学園内の施設や地理も確認しておかないといけない。
全体的に、学園内での規律は自由と自律が第一義であるという印象。そこで何を学ぶか。何を選ぶか。自らの時間をどう利用するか。どう行動するか。全てが自由で、だからこそ全て自分で考えて決めなければいけない、という重みがあった。漠然とながらその印象を感じ取って、それを自分は本当にこなしていけるのか、ティリルは背筋に軽い不安を乗せていた。
とはいえ。
今日は初日。自分の立場を確認する作業のうち、時刻は夕を過ぎた。あれこれの全てをこなそうと思って出来る状況でもないし、できる作業が「考える」だけであるなら大して有為には過ごせない。
「詰め込んだってしょうがないしね。とりあえずやることは明日に回して、まずはご飯食べに行こ」
ミスティの提案は棚上げの一言。小心者のティリルはそこに一抹の不安も感じないではなかったが、確かに長旅の疲れもあり、特に今日は多くの人に会って緊張することもあった。ミスティに負けぬほど、空腹も疲労も感じていたのだ。
ランプの明かりを消して、外に出る。すっかり夕暮れ。外は宵闇。暗くなってからの学園の風景は、またさっきまで見ていたものと違った印象。
「食堂、二箇所あるんだけどさ。美味しいけど高いところと、不味いけど安いところと、どっちがいい?」
「え、えっと……」
しばし悩んで、首を捻る。
もともと、あまり経済観念も強くなく、実際に今財布の中身にも困っているわけではないティリル。国王陛下から生活費を出してもらっている身、という負い目もないではなかったが、結局あまり考えるほどでもなく。
「じゃあ、えっと、美味しいところの方で」
と答えてしまっていた。
長旅の間の食事は、干し肉や小麦焼き菓子など味気のない携帯食料が主だった。久しぶりに美味しいものが食べたい、というのもティリルの本音だった。
よしよしと満足げに頷くミスティに連れてこられたのは、寮を出て、通り沿いに歩いたすぐのところに建つ六階建ての大きな建物。千人以上が一度に集まれる講堂や、学術書の揃えられた図書室が縦に並ぶ建物の六階層に構えた、まるで貴族御用達の高級料理店のような瀟洒な食堂だった。
「わ、すごい……」
学生食堂、という響き。ユリの町にもあった大衆食堂の、せいぜいもう少し広いだけのところだろうと想像していたティリルは、うっとりと漂う高級感と、上品でありながらも食欲をそそる美味しそうな匂いとに、思わず息を吐いた。
入って入ってと背を押され、中に足を踏み入れたティリル。一転、店構えそのものの高級そうな雰囲気に全くそぐわない、そこに屯する学生たちの雑雑とした振る舞いにきょとんと目を丸くする。整然と並ぶ四角い机に、だらけた姿勢で向かう白いシャツと黒いズボンの男子学生、黒いスカートの女子学生たち。大声で話し、笑い、または食事をつつきながら本を開き、思い思いに時間を過ごしている。
「何代か前の学長がすごいグルメだったとかで、半ば趣味で作った『高級風食堂』らしいんだけど。ま、結局食べに来るのは学生だけだからね。雰囲気なんて、あってないようなもんよ」
ミスティの説明。けらけらと笑いながら、さぁさぁと半ば強引に、ティリルを窓際の空いていた席に座らせる。騒々しい食堂の中では、比較的人が少なく静かな一角。だが何よりティリルは、石壁に埋め込まれた小さなガラス窓から覗かれる外の景色にまず感動した。
六階の建物の窓は、夜の闇に映える町の灯りを厳かに映し出している。それもまた、山の上から見慣れたユリの町の夜景とは、光の数も美しさも異なっていた。
どちらの方が綺麗というのではない。唯一不満があるとすれば、こんな狭い窓からしかこの素晴らしい景色を覗けないということが、少しだけ息苦しかった。
間もなくウェイトレスがやってきて、二人のオーダーを聞いていく。可愛らしいフリルの衣装に対して動きや口ぶりがどうにも洗練されていないように感じられてしまったが、学生が小遣い稼ぎにこなしているアルバイトだと教わって、そのことにも合点がいった。
しばし待ち、二人の前に皿が運ばれる。ティリルの注文はクリームシチューとパン。向かうミスティは、肉とトマトのソースの平小麦麺に、エンドウ豆のスープ。どちらの皿から上がる湯気も、美味しそうなにおいをたくさんはらんでいた。
「あ、美味しい」
一口スプーンを口に運んでの感想。ミスティが耳ざとくそれを聞き拾い。
「でしょ? グルメの学長が作っただけあって、確かに味はいいのよ。ここ。
ただね、値段が張るからホントにたまのゼイタク。毎日ここに来る奴なんて、よっぽどの金持ちのお坊ちゃんお嬢ちゃんってとこね」
「でも、結構人が入っているように見えますけど」
「まぁ、本科だけでも五、六百人。予科まで合わせれば三千人近い学生がいるんだからね。何だかんだで、一日に百人以上は来てるんじゃないかな?」
「ふわ、三千人ですか……」
改めて、その規模の大きさに溜息をついてしまうティリル。
自分が住んでいたユリの町。その町に住む人間全てと同じだけの数の人たちが、この学園の中だけに集まっているんだ。信じられない、という感想さえ湧かない。正直なところ、実感がなさ過ぎた。




