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遙かなるシアラ・バドヴィアの軌跡  作者: 乾 隆文
序章 ユリの山奥にて 第一節 春の雪夜
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0-1-2.明日の予定




「ウェルはいた?」


 相変わらず編み棒を動かしながらのローザの言葉に、ティリルは小さく頷いて返した。やりとりはそれだけで、ローザはまた無言。ティリルも読みかけだった本を開き直す。


 ウェルが降りてきたのは、もう二ページほど本を読み進めた頃合だった。黙っていつもの暖炉脇に腰を下ろす。ティリルにもローザにも、言葉を向けようとしない。ティリルは本を読むフリをしてちらちらと彼の素振りに目を向けていたが、どうも彼は無愛想というよりは何かを切り出したくてタイミングを探っている、といった様子だった。


 何か話があるなら、早く言っちゃえばいいのに。ティリルは、なかなか聞かれないウェルの心中に、脇腹がむず痒くなるようなもどかしさを覚えた。


「――……あ、あの、母さん」そして。「その、明日、ちょっと町まで出かけてこようと思ってるんだ。それで、その、ついでだし何か買ってくるものあるかな」


 ようやく口を開いたかと思ったら、出てきた言葉はそんなつまらない質問。なんだ、その程度の話だったのかとティリルは拍子抜けしてしまう。


「そうねぇ」


 ローザはようやく、一度編み物の手を休めて顔を上げる。


「そろそろ、市に何か春のものが並んでいるかもしれないわね。食べたいものがあったら買ってきてちょうだい。明日のお夕飯は、少し豪勢にしましょう」


「ん、わかった」


 ローザの紡いだ言葉に、ティリルは「やった、明日はご馳走だ」と、子供のように心を躍らせてしまう。冬の間の山の生活では、なかなか美味しいものは食べられない。固い干し肉や、野菜を塩に漬けたものや、保存食ばかりだ。雪の季節が終わってしまうのは淋しいけれど、美味しいものが食べられる季節が来るのならそれはそれで嬉しいかな。そんな食い意地の張った思考をぐるぐると巡らせていると。


「ティリルも一緒に行かないか?」


 ふと、ウェルが話をティリルに向けた。ぼんやりと考えごとをしていたティリルは、すぐには答えられず間抜けた顔をウェルに返してしまう。


「……え?」


「明日、別に用事とかないだろ。買い物付き合ってくれよ」


「え、えーと、どうしようかな……」


 首を捻って少し考え込む。予定がないのは確かだが、実はティリルは一昨日町に下りたばかりで、郵便局で父からの手紙も受け取り、気に入りの古書店に新しく入った本も、あらかた眺めてしまっていた。それに、近付いてきたウェルの誕生日のプレゼントもちゃんと用意してある。町に行ったところでやることがないのもまた、本当なのだった。


「明日は、この本を読み終えちゃおうと思ってたんだけど」


「出来れば一緒に来てほしいんだ。本ならいつでも読めるだろ。……ダメか?」


 なぜだろう、ウェルの目はどこか縋り付くような、淋しそうな色を湛えていた。


 ティリルはきょとんとしたまま、しかしそうと言われては断りきれず、何やら訳のわからないままに、「そんなに言うなら、構わないけど……」と応じた。


 途端、ウェルの表情が明るくなる。けれど、それも喜びとか嬉しさというよりは、安堵の気色が強く映えているように見えた。


『そんなに言うなら構わないけど、でもどうしてそんなに言うの?』


 心に浮かんだ疑問を、結局実際に口に出すことは出来なかった。


 代わりに、下らない軽口をウェルに向けてみる。


「じゃあその代わり、お昼おごってね」


 思ったよりウェルの反応は過敏で、飛び上がるように首を傾げて、「げ、そんな要求がつくのかっ?」と半ば怒鳴り声を上げた。


「だって、私も一応明日の予定を曲げてウェルに付き合うんだもん。それくらいは当然じゃない?」


「ううぅ……」


「あ、や、その、そんなに嫌ならムリにとは言わないけど……」


「ええぃっ、わかったよ! 昼飯くらいおごってやる!」


 まるで宝石でも買うかのような迫力のある決意。おごってもらう身で言うのもなんだが、昼食の一度など大した額にもならないだろうに。なんだか重ねて意地悪をしてみたくなり、ティリルは胸の前で手を叩きながら、


「ホント? やった! じゃあ明日は『ミルルゥ』のポテトグラタンね!」


「げ。ミルルゥって、あの大通り沿いのめちゃくちゃ高いレストランか……?」


「うん。せっかくおごってもらうんだから、普段は行けないお店に行かなくちゃ損でしょ?」


「……せっかくおごってやるんだから、少しは遠慮ってもんをしておいた方が、心証とか色々な面で後々得だと思うぜ」


「ウェルが相手なんだから、今さら心証なんか気にしたってしょうがないじゃない?」


 いつもどおりの軽口の応酬。人見知りで小心者のティリルが、ウェルが相手だからできる、つまらない、図々しい会話。やっぱりウェルはいつものウェルだ。何となく何かを隠しているようにも見えたけれど、きっと大したことじゃなかったんだ。


 ウェルの苦い表情にころころと笑いかけながら、ティリルはそんなことを思い、安堵した。




 静かに更ける夜。


 冷え込んだ自分の部屋の窓を、僅かの間(ひら)いて外を見る。雪はもう止んでいた。


 当然か。いくら気温が下がったとはいえ、真冬に比べれば今日は随分暖かい。雪など、どうせ最初から積もるほど降るはずがなかったのだろう。


 冷たい風がティリルの体に当たる。一つ小さく身震いして、ティリルは俄かに窓を閉じ、ベッドに倒れ込んで頭から布団をかぶった。明日は早い。早く寝た方がいい。


 ウェルはまだ階下にいた。何をするでもなく、ただどこかそわそわしながら暖炉の脇に座り込んでいた。


「もう寝るね」とティリルが言って階段を上がったのが先ほど。ウェルも早く寝た方がいいだろうに、まだ階段を叩く足音は聞こえない。


 そして結局、足音の聞こえぬまま。ティリルはやがてぼんやりと、瞼を閉じて眠りについてしまった。





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