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遙かなるシアラ・バドヴィアの軌跡  作者: 乾 隆文
第一章 第二十四節 サリアの街の東側
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1-24-5.娘たちの噂話







「その、申し訳なかったです。せっかくご挨拶頂いてたのに、私、自分が気になることばっかり考えちゃって」


「いやいや、気になさらないでください。私の勤め先の連中など酷いもんですよ? 挨拶どころか、自分から話しかけてきておいて、気になることがあると話なんか放り出して勝手にどっか行っちゃうんです。ティリルさんは、研究者としての好奇心も持ちつつ、礼儀正しい挨拶もご存知だ」


 下げた頭に、暖かい低い声が掛けられる。


 ゆっくりと顔を上げると、精悍な顔立ちが、ゆるゆると微笑んでいた。どこか冷たい印象も抱いた男性だったが、言葉を交わしてみると優しさも感じる。少しだけ、ラクナグ師のことを思い出して、胸の裡が苦しくなった。


 しばし談笑して、二人と別れる。しばらく歩いて振り返ると、二人が、先程までティリルたちがいた食堂に入っていく様子が見えた。


 黒髪、面長の鋭い笑顔を思い起こしながら、素敵な方でした、と呟く。師の面影に感じ入りながら何となく零れてきた感想だったが、聞いたリーラは目を大きく見開いて「……先輩、ああいうのがタイプなんですか?」と顔を覗き込んできた。


「タイプって? 何のことです?」


「ですから、好きな男性のタイプ――」


「なっ」思わず仰け反る。「……な、なんてこと言うんですかっ? そんなわけないじゃないですか!」


「ですよねぇ? やぁ、びっくりしちゃいましたよ。あの人どう見ても三十は過ぎてますもんね」


 ふざけているのか、本気なのか。リーラは結構深い溜息をつき、安堵の表情を見せた。さてどこから訂正したものだろう。とりあえず、彼の名誉のために、自分の目には二十五かそこらに見えたと、表情も声音も変化乏しく平坦な調子で言ってみた。


「えぇ? そうですか? 絶対賢人(36歳)近いか、もしかしたら過ぎてるくらいだろうと思いますけど」


 目を丸くするリーラ。


 そんなに上に見えたのか。肌の艶や表情の張りからはまだまだ若さが感じ取れたと思ったが、言い張っても水掛け論だ。別の話題に切り替えよう。


「年齢はともかく、なんとなく不穏な感じの漂う人でしたよね……」


 リーラが声を潜める。話題、大きくは変わらなかった。


「不穏な、ってどんなですか?」


「その――、……例えば、そう! 研究所の事務職って言ってましたけど、あれ絶対そんな普通の仕事に就いてる方じゃないですよ」


「普通の仕事じゃない? どういうことですか?」


 にひひ、とルートのような笑い方をして、リーラは一度答えを溜め、その間辺りをきょろきょろと見回して人目を確認した。まだどうやら傾いた冬の日が、赤くは染まり始めない辛うじた昼。せっかくの休日の昼間と、通りを歩く人の数はそれなりに多かったが、駅から離れたこの辺りでは肩をぶつけるほどの距離感もない。普通の声量で話をしていれば、そうそう誰かに聞き耳を立てられる様子でもなかった。


「例えば、北の国のスパイとか!」


 楽しそうにリーラが笑う。


 正直どのような顔を返せばいいのかわからず、とりあえずティリルは、眉間にしわを寄せたまま、努めた微笑みを顔に張り付けた。


「わかりません? スパイ」


「……いえ。…………知ってますけど」


 もちろん、本で読んだ知識だが。


「あの人、バルテ帝国からソルザランドの魔法研究成果を盗みにきたスパイなんですよ! それで魔法大会に潜り込んで、この学院の上位学生たちの実力とかを盗み見ようって狙いなんですよ!」


「一般公開の大会を見るのに、わざわざスパイさんが潜入してくるんですか?」


「う……、じゃ、じゃあ! 大会で盛り上がっている間に研究室棟に潜り込んで、先生たちの論文を盗んじゃうとか」


「論文はいずれ発表するものですし」


 それに、研究途中の不出の資料などはあるかもしれないが、わざわざ盗みに来るほどの価値があるものか、俄かには思い至らない。


「でもでもっ、……そ、そう! やっぱりスパイの目的はそう簡単には推測できないんですよ! 私たち一般人には知り得ないような貴重な資料の情報を掴んでいて、極秘のうちに目的を達成して帰っていくんです」


 うん、と一つ頷き。腰に手を当てて満足げな表情を浮かべる。彼女の推理――というか想像は、まるで根拠も妥当性もなく、説得力というものを欠片も持っていない。当然ティリルも作り話として面白く、暖かい目を持って見守りながら聞いているのだが、そんなティリルの本心にどこまで気付いているのやら。


 リーラの妄想は止まらない。


「それでそれで! ゼル先輩もきっとスパイの一味で、普段から学院に潜入していろいろな情報を集めてるんですよっ。だからあんなにいろんな人や出来事に詳しいし、頭の回転も速いんです!」


 初めてほんの少しだけ、リーラの話に妥当性らしきものが生まれた。


 確かに、ゼルの知識は広大で膨大だ。それはもう、何を目的にあれだけの知識量を集めているのか、普段一体何をしているのか、怪しくなるほどに。そういう風に言われれば、リーラの語る絵空事が、ほんの少しだけ現実味を帯びてしまうほどに。


「あはは。ゼルさんがスパイだったら……。でも、なんだかあんまり悪いことはできなそう」


「スパイって別に悪いことする人じゃないですし。ただ、潜入される側にとっては敵だっていうだけで」


「それはわかってますよ。学院にとっての悪いことも、国にとっての悪いことも、ゼルさんには似合わないなってことです」


「そうですかぁ? あんな怪しい人、どこで何やってるかわかったもんじゃないですけど」


 口の下に皺を寄せてそんなことを言うリーラ。意外だな、とティリルは顎を撫でた。リーラは、ミスティにはあまりいい感情を持っていないのかもしれないとは思っていたけれど、ゼルに対しても大きな信頼は置いていないのか。


 もったいない。ミスティと言い、ゼルと言い。マノンも含め、あの先輩たちほど信頼の置ける人間は、学院の中でも少ない、とティリルは思うのだが。マノンは……、時に悪ふざけが過ぎるのが難点ではあるが。


「ただ、それを言ったら、ヴァニラさんもリーラさんも本当に素敵な友達だし。ルースさんなんて他の女性方とはあんな風だったのに、私にはすごく優しくしてくれて――」


「何か言いました?」


「え……、あ、ううん。何でもないんです。ちょっと、考え事を」


 声に出していた自分に気付き、慌てて両手を振る。ごまかされたリーラは。ふぅんと少し不満げに口の先を尖らせたが、それ以上は何も言わなかった。


 やがて、空が黄色く染まり始める。


 学院の門が見えてきて、ティリルはスカートのポケットに手を伸ばした。


 束の間の休日が終わる。白銀のメダルのほんのりとした冷たさが、ティリルの手の平にそのことを教えてくれた。


 明日からは、いよいよ大会に向けた準備に本腰を入れなければ。冷たい風に頬を撫でられ、ティリルは背筋が引き締まるのを感じた。




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