0-3-3.母の名は
「ティリル様のお母上は、かの有名なシアラ・バドヴィア女史と伺っております」
そして、ゆっくりと説く。彼がカップをソーサーに置く音が、部屋中に響いた。
風の音も雨の音もまだ強く鳴り続いているはずなのに、なぜだか急に遠く小さくなったように、ティリルには感じられた。
――シアラ・バドヴィア。それは、永いエネア大陸の歴史の中で最も劇的な伝説。
十三の国を巻き込み、数十年の長きに渡って繰り広げられたエネア大陸戦争。泥沼化した戦局の中、ソルザランド王国の率いるソルト同盟軍に唐突に現れ、強大な魔法の力を持って次々と敵軍を打ち破り遂に戦争を終結させた、稀代の魔法使。そして、戦争の終結と同時に忽然と姿を消した、幻の人物。
いかな田舎娘のティリルとて、その名前も、伝説も史実も、常識程には知っている。ありがちに、幼い頃に憧れて、私もいつかこんな魔法使になれたらと夢見たこともある。
けれど――。
「……そ、そんなまさか――」
「突然言われれば、信じられないのも無理はないと思います。ですが、王宮の者が調べた限りではそれが事実なのです。シアラ・バドヴィア女史は、戦争に参加した後ユイス・ノル・ゼーランド氏とご結婚なさり、ユリ市の山小屋に隠遁なさった」
遂に聞き慣れた父の名前まで示された。ティリルは沈黙するしかなかった。
心の整理がつかない。男の話は確かに整合性はあるようだったけれど、そのことと、その話が真実だと受け止めることが出来るのとは、別。身の丈に余る、それも酷く唐突な話に、ティリルはすっかり混乱してしまっていた。
「その、すみませんでした。私が勘違いして、説明の仕方を間違ってしまったようで。すっかりティリル様を困らせてしまいましたね」
「……いえ、その……。……教えて頂けて、良かったとおもいます。こんなことでもなければ、お母さんのことなんて知らずに過ごしていただろうと思いますから」
どうにか心臓を落ち着かせて、男に礼を言う。
クリランシはほっと笑みを零し、「そう言って頂けると、安心できます」と溜息をついた。
「ですが、やはりティリル様を混乱させてしまったのではないかと思います。
その、話を元に戻させて頂きますが、サリア魔法大学院への入学のことに関しても、今すぐに決められることではないでしょう。どうでしょうか、私はユリの町に一週間ほど滞在しようと考えておりましたので、その間に結論を出して頂くということでは――」
「あのっ!」
声を張り上げた。拳を両の膝の上に乗せ、その拳を見詰めるように俯いて。しかし、その実表情を強く引き締めて。
「……あの、私行きます。魔法大学院に、是非行かせてください」
言い切った。
途端、クリランシの表情がぱっと明るくなる。しかし結論を急ぐようなことはせず。
「本当ですか? そんなに慌ててお決めになる必要はありませんよ。ご自身の気持ちとよく向き合って、よく考えてから決められた方が――」
「私、今まで将来のことなんて考えたことがありませんでした。自分が魔法使になるなんて、想像したことはあっても真剣に考えたことなんてなかったし、なれると思ったこともありません。
でももし本当に私にもなれるなら、私、サリアの学校で勉強してみたい。勉強して、魔法を使えるようになって、自分を成長させたい。そう思うんです」
決意は、嘘ではない。引っ込み思案で人見知りで物怖じばかりする自分に、こんな強い気持が湧くなんて自分でも信じられないけれど、男に向けたその言葉に嘘はないと言い切れた。
そして、横を見て、「あ――」少し醒める。
自分の右側には、穏やかな面差しで自分のことを見守っているローザの姿がある。そうか――。途端に心が俯いた。ここにいるのは自分だけではなかったんだ。
「どうか、したの?」
ティリルの言葉が途絶えたのを見て、ローザが顔を覗き込んでくる。
「あ、あの……、私……」
優しげな、ともすれば儚げなローザの笑顔が、ティリルの決意をやんわりと鈍らせた。
「その、……ごめんなさい。私、勢いで勝手に答えちゃって……。おばさんを一人残して都に行くなんてこと、できるわけないのに……」
呟く。そう、今の生活は、ウェルがいなくなった二人のものでさえ、日々の忙しさが少々辛い。この上自分までいなくなったら、ローザはどんなことになってしまうのか。重なる重労働に、すぐに体を壊してしまうのは目に見えているではないか。
自分は何と考え足らずだったんだろう。省みて俯くティリルに、しかしローザはどんなことを思ったのか。静かに目を細め、ティリルの手の平に手を重ねて少女の名前を呼んだ。
「ティリル」ぎゅっと、小さな手を握り締めてくれる。「前にも言ったでしょう? 私はあなたにも、あなたの望む道を歩んでほしいって。そのときに私は、あなたの妨げにはなりたくないの。私がいることがあなたの邪魔になるなんて、考えただけでもぞっとするわ」
「ローザおばさん……」
「あなたが行きたいと思うなら、魔法使になりたいと思うのなら、魔法大学院に行きなさい。国王様にご支援頂けるなんて滅多にないことよ。心配しなくても私は一人で大丈夫。いつか、あなたが目指すような魔法使になれた時、あるいは道に迷ってしまった時に、また帰ってきてくれればそれで十分よ。私はあなたの母親なんだから、娘を送り出すことくらい、ちゃんとしなきゃね」
それとも、本当のお母さんのことがわかったから、私のことはもう必要ないかしら? ローザはせっかくの暖かい言葉の最後を、そんな趣味の悪い冗談で締めくくった。そんなこと、あるはずがない。ティリルは胸中で頬を膨らませた。
けれど、そんな酷い言葉に対する苦情の文句や表情を、実際にローザに伝えることは出来なかった。それより彼女の暖かい言葉と愛情に、顔をくしゃくしゃにして喜びを表してしまう方がずっと先だった。
「……おばさん、本当にすみません。……私きっと、すごい魔法使になって帰ってきます。絶対、帰ってきますから」
「ええ、期待しているわ」
ローザはくすりと笑った。
こういう人なのだ。寡黙で取っ付きにくい雰囲気の強い反面、とても優しくて情が深い。そしてそれでいてどこか照れくさがり屋で、いつも悪い冗談を織り交ぜて自分の思いやりを誤魔化そうとしてしまう。ローザはそういう人なのだ。
じわりと、視界が滲む。ローザの顔も霞む。ついつい涙ぐんでしまっている自分に気付き、ティリルは慌てて袖で顔を拭った。




