0-1-1.春の終わりの雪
はちん、と暖炉の火が爆ぜる。
ティリルは徐に、僅か本から目を上げて暖炉の薪を見た。そしてまた何事もなく、読みかけの小説に目を落とし、物語の世界にのめり込み直す。
気紛れに冬の寒さを思い出した、春先の山の夜。暖炉の炎のぬくもりは、ソファに足を抱えて座る少女のところまでどうやら届いてくる。脇ではローザが、いつもと同じように編み物をして時間を潰している。
いつもと変わらない、夕食の後のささやかな憩い。ティリルはこの時間が、一日の中で一番好きだった。
この家に住み始めてすぐの頃は、自分が居候だという自覚からなかなか気構えを崩せず、ローザに対しても要らない遠慮をしてばかりいた。しかしローザはそれまでと変わらず優しく、いつでもティリルを当たり前の、この家の住人の一人として扱ってくれた。ローザは決して口数の多い人ではないのだけれど、その茶色い丸い瞳、薄く皺の刻まれた口許に浮かぶ確かな優しさ暖かさを、いずれしっかりと受け止められるほど心に余裕が生まれると、今度はその傍にいることに心安ささえ感じるようになる。
元よりティリル自身も、決して口を開くのが得意とは言えなかった。
「……雪」
ふと、珍しくローザが編み物の手を休めて顔を上げた。
ティリルは、一瞬は何と言われたか聞き取れず、少し遅れてローザの横顔に目を向ける。
「雪が降り始めたかしら?」
「――え、本当ですか?」
聞くや、ティリルは本を閉じて窓に駆け寄った。カーテンを開け、曇ったガラスを手で拭うと、窓鏡に映るのは翠色の瞳と香茶色の長い髪。そして、あどけない少女の面に重なって見えるのは、ちらほらと舞い降る幾片の白だった。
「本当、雪だ」
illustration by イコ様
音を立てるわけでもなく降り出していた白雪。ローザは一体どうしてそれに気付いたのだろう、と不思議に思うのも一瞬。ティリルはやがてぼんやりと、窓に見える闇と綿雪と、映る暖かい部屋との情景に魅せられてしまう。
雪は好きだ。山奥の生活では、それは必ずしも幻想的であるばかりではないものだが、それでもティリルは白銀に光る雪が、白に染まっていく世界が好きだった。もう、この年の冬は見納めか。昼に見た山の木々はそろそろ枝先に芽をつけ始めていた。冬はもう、終わる。春がやってくるのだ。
「ティリル」
ぼんやりと窓に寄り添っていた少女は、ローザの声で現実に呼び戻される。
「そこは寒いでしょう? こちらにいらっしゃいな」
「……はい」
言われて、体が冷え始めていたことに気付く。心の中にはもう少し雪を見ていたいという想いもあったのだが、それで体を壊してもローザに迷惑がかかる。大人しくカーテンを閉めて窓から離れ、暖炉の側のソファに戻ることにした。
「そういえば、ウェルは部屋に戻ってるのかな」
ふと、思い至って呟く。雪が降るほど寒いのに、ウェルがいないのは珍しい。彼は人一倍寒がりで、そのくせいつも強がってソファの上をローザとティリルに譲り、自分は冷たい床の上せめて暖炉のすぐ脇に陣取って、剣の手入れをしているのだ。今日は夕飯の後、裏の物置小屋の様子を見てくるといって外に出て行ったが、気が付けばあれから大分経ったというのにまだ居間に戻ってこない。
不思議に思って首を捻ってみたが、別段ローザからは何を言ってもらえるわけでもなかった。
「どうしたんだろ……。私ちょっと様子を見てきます」
ぱたぱたと足音を立てて、ティリルはリビングを出て玄関に向かう。ローザは沈黙をもて気にすることはないと言いたげだったが、それでもティリルは彼のことを放ってはおけなかった。
外に出て、物置小屋を覗く。ウェルの姿はない。
部屋に戻ったのかと宛てをつけ、すぐさま踵を返して家の中に戻る。階段を上って二階、右側手前の部屋。軽く扉をノックすると、中からがたごとと音が聞こえた。
「ウェル? いるの?」
すぐに返事が届いた。
「あ、……ティ、ティリルか」
「何してるの?」
「……や、ちょっとな」
「? 入ってもいい?」
「あ、ちょ、ちょっと待ってくれ」
ウェルの声は、どこか慌てていた。着替えでもしているのだろうか。物心ついたときからいつも二人で遊んでいて、今はこうして同じ家に住んでさえいる二人。本当の兄妹ではないが、もう兄妹も同然なのだから、今さら殊更に恥ずかしがる必要もないだろうに。
「……もういいよ、入っても」
考えているうちに、部屋の主から入室の許可が下りた。従って扉を開けると、そこはいつもの散らかった部屋。窓の側に置かれたベッドの上に、ウェルが腰掛けてわざとらしく笑みを浮かべていた。
服装は、夕食のときと同じ。少しくたびれたグレーの家着。着替えていたわけではなさそうだ。
「……何、してたの?」
「ん、や、別に何も――。それより何か用か?」
「用ってわけじゃないけど。冷え込んできたのに火にあたりに来ないから、どうしたのかなと思って」
「あ、ああそっか。いやその、ちょっとやることがあったもんでさ」
「?? だから、何してたの?」
「いや――、いやホント、大したことじゃないんだよ。ちょっと、な」
ウェルの話は、まるで要領を得ない。隠し事をしているのは間違いない怪しい態度。けれど、恐らくティリルがいくら問い詰めたところで白状することはしないだろう。ウェルは時々、とんでもなく頑固なのだ。
なぜ自分に隠し事をするのか。幼馴染の行動と態度に少しだけ不満を抱きながらも、ティリルは諦念から溜息一つ。踵を返して部屋を出て行くことにする。
「あ、俺もすぐ下行くよ。だからちょっと待って――」
「いいよ別に。何してるのか気になっただけだし、私ももう寝るから」
相変わらず慌てた態度で言葉を繕うウェルに、せめてもの仕返し。少し冷たい声音で言って残してやると、ウェルは気まずそうに口を閉じた。ティリルはそのままウェルの部屋の扉を閉じて下階へ。少しだけ、最後の一言で胸が空いた。
ちょっと意地悪だったかなと思わないでもないが、まぁウェルが気にしているようだったら後で謝ろう。考えながら、リビングのソファに戻ってくる。
改めまして、連載を始めさせて頂きました。割と長編になる予定ですのでお付き合い頂くのも大変かとは思いますが、お楽しみ頂けたら何よりです。
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あさぎ かな様に表紙を頂きました。
あさぎ様、ありがとうございます!
いこ様から挿絵イラストを頂きました。
いこ様、ありがとうございます!