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緑豊かな大国 ヴェルネル。
北と西は海、東は山脈、南は他国からの干渉を嫌う民族が治る小さな国がある。
ヴェルネルの首都ラーフに堂々とそびえる白銀の城を背に馬車で東へ2日半ほど走ったところに小さな町がある。町の名はリンデ。
町の中央には噴水。その周りを屋台が囲む。町外れには家畜が日向ぼっこをしている牧場、そして町工場。さらに町の東外れには小さいながらも鉱脈がある。
子供たちが広場を走り回り、屋台や市場からは賑やかな声が聞こえてくる。
そこから一本中に入る路地を松葉杖をついた恰幅の良い女性がひょこひょこと歩いて行った。
女性は小さな赤十字の看板のある建物へと入っていく。
「こんにちは!!先生、いるかい!?」
小さな部屋には大きな声がよく響く。
入口の扉を開けると目の前にはガラス張りのカウンターと 受付 の文字。すぐ右には少し広い待合室。よいしょ、と待合室のソファに腰掛けると2つ並んだ診察・処置室の更に奥、staff onlyの扉が開いた。
「こんにちは、リーズおばさん。ごめんね、待たせちゃった」
「いいんだよ、セラちゃん。アタシがちょっと早くきちゃっただけだから。今日、先生とあの2人は?」
「先生はまだ往診から帰ってきてないの。後の2人はお休み」
セラ、と呼ばれた少女はセミロングの紺の髪を緩く1つにまとめるとリーズの左足の包帯をほどき始めた。
「名物の天使たちはお休みかい。どうりでうるさいジジイ達がいないはずだよ」
「うるさいだなんて言わないであげて。お話をして元気になってもらうのも治療の1つだよ。病は気からって言うじゃない?」
「セラちゃんは優しすぎるんだよ。わざわざここにこなくてもあのジジイ達は元気なんだから、追い出しちゃって構わないんだからね!」
あっはっはっ!と豪快に体を揺らしてリーズは笑った。
ほどき終えた包帯を横に置いて、セラは彼女の足首にそっと触れる。
まだ完治ではないが、だいぶ腫れは引いてきた。大丈夫そうだ。
「もうすぐ治りそうだね。でも、痛みがないからって無理しないこと。そろそろ先生が戻ると思うから、もう少しこのままでいてね」
4つあるうちのソファを1つ占領してしまうことになるが、リーズの足をそっと持ち上げてソファの上で伸ばして座ってもらう。この方が負担は少ないはずだ。
1つ占領したところで、余程のことがない限り忙しくならないここには、大した問題ではない。
「ありがとね。まったく、あのバカ息子がやらかさなけりゃこんなことには……」
「でも、息子さんも頑張ってやろうとしていたんでしょう?仕方ない、で済まないのはわかるけど、ずーっと怒ってちゃ息子さん、仕事やり辛くならない?」
「わかっているんだけどねぇ。なんで鶏を3羽も逃がしちまうかねぇ」
都会から実家に戻ってきた息子が、慣れない養鶏場の仕事を手伝った結果、謝って鶏を逃がしてしまったそうな。その鶏は近くの森の奥へと消えていったらしい。
それを聞いて怒りながら階段を降りていたところ、踏み外した、と。
「まぁ、まだ慣れていないのに側についていなかった私も悪いのよねぇ」
「自分の子供だから信用していたんじゃない?この子なら大丈夫だって」
肯定の言葉はないが、垂れ下がった目尻を見ると当たっているのだろう。
なんやかんや喧嘩は絶えないが、仲の良い親子だ。リーズが怪我をした時に血相を変えて駆け込んできたのは息子である。
その時の様子からして重体なのかと思ったほどだ。実際は足の捻挫だったが。
「おーい、天才ドクターのお帰りだぞー」
「おや、戻ってきたね。“天才ドクター”が」
「……バカ親父が調子に乗ってゴメンね」
ニヤリ、と笑うリーズとは対照的にセラの口からは重いため息が漏れた。
「あぁ、リーズさん。待たせてしまったようで申し訳ない」
「いや、いいんだよ。セラちゃんが相手してくれていたからね」
大きな手で、まるでガラス細工に触れるかのようにそっとリーズの足首に触れるこの男。190センチ弱はあるだろう巨体に鋭い目つき、そして低い声。
初めましての子供は泣き出してしまう彼が、エーベルト診療所の医者、ゴラード・エーベルト。セラの父親である。硬い黒髪は短く切り揃え、ヒゲは決して伸ばさない。清潔感は大事にする人だ。ちなみに白衣がパッツンパッツンなのは脂肪のせいではなく、筋肉である。
「そろそろ軽いストレッチを始めても大丈夫そうだな。でもまだ無理は禁物。少しずつゆっくり足首を曲げたり伸ばしたり、からやってみよう」
「ゆっくり、だね。わかったよ、ありがとうね。……ねぇ、先生。先生はセラちゃんを信用してるかい?」
「信用?」
「私はつい油断しちまって息子に任せっきりにして問題起こして……。でも先生はある程度のことはセラちゃんに任せているだろう?」
「まぁ、一応学校は出てるし、試験も合格してるからな。ただ経験不足で不安は多大にある。……が!」
立ち上がって腕を組む威圧感たっぷりのその姿はさながら鬼、いや閻魔か。
蛇足だが、子供たちからは影でゴリラ先生と呼ばれている。反対意見はゼロだ。
「このオレが教えてるんだ。心配するだけ無駄だな」
この人はバカだと思う。
オレの娘だから、と言えばこちらとしても嬉しいが、自分が教えているから、とは。もう少し素直に褒めてくれてもいいだろうに。腕がいいのは間違いないのが悔しい。
「おい、セラ。リーズさんはオレが引き継ぐから、あっち見てこい」
「わかりました、天才ドクター」
「スーパー天才ゴッドドクターと呼べ」
「かしこまりました、厨二病ドクター」
「おい」
よく響くリーズの笑い声を背に、staff onlyの扉を開いた。
扉を開けて階段を上った先は住居になっている。
程よく広いリビングは休憩室も兼ねていて、昼休憩は本日休みの看護師2人も交えてテーブルを囲んでご飯を食べている。
セラの部屋、ゴラードの部屋を通り過ぎて先日まで空いていた部屋をそっと覗いた。
「……起きてますかー?」
つい小声になってしまった。
物がなく、ガランとした部屋にポツンとあるベッド。そこで寝息を立てているのは、ボサボサの長い黒髪に長い睫毛を伏せた青年。
前の雨の日にセラが拾った彼だ。
どうしようかと思ったが、捨て置くわけにもいかず走ってゴラードを呼びに行き、連れ帰った。
出来る処置は済んでいて、後は目覚めるのを待つばかり。
「ん、点滴オッケー」
点滴も変えたし、脈も正常。見る限り異常はなさそうだ。
診察をしたゴラードは
『詳しいことは目ぇ覚めてからで良いじゃねぇか。そんなに危ない奴じゃないと思うぜ』
だそうだ。
「どこから来るんだか、あの自信は」
と言いつつも信頼してしまう自分がいる。
「さて、顔拭きますねー」
濡らしたタオルで顔を拭いても起きるどころか身動きすらしない。
「生きてますかー?」
脈を確認した自分が言うのもおかしいか。
整った顔立ちの彼は例えるなら眠り姫ならぬ、眠り王子か。
「あなたは、誰ですか?」
返答があるはずもなく、セラはゆっくり扉を閉めた。
「私は間違ったことしてないよね。危険な人とかじゃないよね」
リビング横の棚に置いてある写真立てに問いかける。
そうすれば、写っている柔らかい笑みを浮かべている女性が
大丈夫よ
と言ってくれそうで。
「私は何を拾ったんだろう。
ね、お母さん」